No.3608 この世は神聖ないのちの宮居




     この世は神聖ないのちの宮居



  ある朝早く目が覚めると、ふと、自分が今生きているこの世界は、そのすみずみにいたるまでどこまでも、神聖ないのちの宮居(みやい)ではなかろうかと思い至りました。そしてもうその次の瞬間、わたくしのこのいのちを大きく包み込んでいる、この果てしのない宇宙の隅々までが、そっくりそのまま神聖ないのちの宮居に違いないと、もうほとんど確信するに至ったのでした。このわたくしの中のいのちの純粋感覚が、そのまま宇宙の果ての果てにまで及び、その宇宙的な拡がりを持ち始めたいのちの純粋感覚の中で、この世のすべてはそっくりそのまま神聖ないのちの宮居であり、そのような聖なる宮居の中で起こるこの世のあらゆる出来事もまた、必ず聖なるものであるに違いないと直感したのです。その感覚は、それまでわたくしに付きまとっていた、取り留めのない散文的な日常的感覚からは想像もできないほどの、真実らしさと確実さと快さとをもってわたくしの胸の底にストンと落ちてまいりました。そして、そのとき同時にわたくしは、この世界の無限の広がりだけでなく、このわたくしの、この小さないのちそのものも、宇宙の果ての果てにまでおよぶ神聖ないのちの宮居そのものに他ならないと感じたのです。それもこの小さないのちが宇宙の果ての果てにまでおよぶ神聖ないのちの宮居の一部にすぎないというのではなくて、そのいのちの宮居そのものであると感じたのです。つまり、神聖ないのちの宮居であるこの世界とその中に生きているこの自分自身との間には少しの区切りもなくて、そこには唯ただ一続きの、純粋で浄らかなエネルギーの連続的な充満があるだけで、全体と部分というような区別すらもないのでした。

  そしてわたくしの考えがさらに展じてまもなく、この世のあらゆるものは、この宇宙を生み出した聖なるPLEROMA(プレローマ)の浄らかなエネルギーの顕われであり、またその変容に他ならないのだと感じられてまいりました。つまり、この世の在りと在る一切のものは、その源をたどれば永遠の、聖なる完全エネルギー場であるPLEROMA(プレローマ)に行き着き、そのPLEROMAの浄らかな全きエネルギーが、仮初めのこの世において、その姿をさまざまに変えながら転じていく瞬間瞬間を、全一連関的に現象しているのでした。そして、このような考えはわたくしにとっては、意外なほど単純で、しかも心に受け入れやすいものだったのです。また、このような考えにたどり着いた時わたくしは、なぜともなく、ついに、ほんとうの自分に出会うことができたと感じてもいるのでした。                                                                                                                                                    
  このことがあってから、わたくしにはしばしば眼に映るもののことごとくが浄らかなエネルギーと見えてきたのでした。いえ、眼に映るものばかりではなく、耳に聞こえるものも、心で考えることも、この世の時間も空間も、あらゆる物事のあらゆる変化も、あらゆる感覚も感情も、なにもかにもがことごとく浄らかなエネルギーの現れと意識されてきたのでした。そうなるとこの世はそのまま聖なる世界でした。隈なく永遠の聖なるエネルギーと光に満たされた世界なのでした。つまるところ、この世には神聖でないものなど何一つとしてないのでした。眼にするものも、耳にするものも、考えることも、感じることも、時間や場所でさえも、すべては聖なる物であり聖なる事であり聖なる時であり聖なる所なのでした。家のすぐ近くの保育園から聞こえてくる園児たちの遊び声や泣き声も、喧嘩したり励まし合ったりする声も、女先生が注意したり指示したりする声も、スズメたちの鳴き声も、道を通り過ぎる車の音も、またそのような音や声だけではなく、部屋の中のテレビやテーブルや本や食器なども、ベランダの花や草木も、窓から見える青い空も白い雲も、風や陽光も、わたくしの周りのことごとくのものがまさしく永遠の聖なるエネルギーの浄らかな浄らかな現れに他ならないのでした...

  それにまた、同じように、わたくしの妻や子どもたちもやはり浄らかなエネルギーの現れであり、会社の同僚たちもみな浄らかなエネルギーの現れであり、道ですれ違う人々も電車に乗り合せる人たちも、またこの世の生きとし生けるものたちもみな、浄らかなエネルギーの現れに他ならないのでした。さらには、人間が作り出した建物やそのほかのさまざまな建造物や乗り物や機械などもみな浄らかなエネルギーの現れなのでした。そのように感じ始めると、本来この世に自分と対立しなければならないものなど何一つとしてなく、すべては浄らかな、お互いに親和すべき存在なのでした。

  このように意識するができるようになってからというもの、この世はこれまで感じていたよりも遥かに素晴らしいところのように思えてまいりました。そしていつしかわたくしは、人の世の多くの表面的な不完全さや煩いごとを突き抜けて、この世のもっとも根源的な浄らかさを楽しむようになっていったのでした。なんといっても、この世のありとあるものがそのまま浄らかないのちの宮居に他ならず、すべてのことが根源的エネルギーの聖なる変容に他ならなかったのですから...


  この浄らかな感覚は日を追うごとにさらに深まってまいりました。そしてそれにつれてわたくしは、自分の日々の心のあり方も生活のあり方も、その永遠の根源的エネルギーの聖性に相応しいものにしたいと願い始めていきました。また同時にこの人間世界のあらゆることもその聖性に相応しいものになるようにと祈り始めてもいるのでした。

  また、聖なるPLEROMA(プレローマ)の浄らかなエネルギーは、この世の本質の本質であり、万物の根源の根源であり、大自然のいのちのいのちであると感じられてまいりました。つまるところ、この世には、その根源のエネルギーから現象の枝葉に至るまで、本質でないものなど何一つとしてなく、いのちでないものも何一つとしてないのでした。すべてが浄らかなエネルギーであり、その根源的な大きないのちの本質的な現れに他ならないのでした。


  このようにわたくしの目に映る物も人もみな浄らかなエネルギーの現れと見えるのですから、わたくしにはもうこの世界に対するいかなる敵意も嫌悪の念も湧き起こってはこないのでした。たとえどんなにわたくしの目に映る人の表情が醜く歪んでいても、やはりその本質は浄らかなエネルギーなのですから、その人に嫌悪の念を起こす理由がないのでした。以前のわたくしでしたらあらゆる物事に表面的に反応し、例えば醜いものや自分の趣味に合わないものに対しては反射的に嫌悪感や、はなはだしい場合には敵意をすら抱いていたのです。それが今では浄らかな本質的エネルギーの現れとしてそのまま受け入れているのでした。

  ところで先日の午後、わたくしは新宿南口の紀伊国屋の三階の俳句集の売り場で、小中学生が作った俳句と名のある俳人が作った俳句とを比較するような形で編纂された小さな句集を興味深く眺めていたのですが、やがてそれを閉じて元の位置に戻し、踵を返してその場から立ち去ろうとして歩きかけた瞬間、すぐ後ろに立っていた若い女性の、その思いがけないほどにも深い精神性をたたえた右横顔を目にして、ふと心が揺れ動いたのでした。それはほんの一瞬の出会いだったのですが、それでも一生に一度出会えるか出会えないかというほどにも稀なその精神性豊かな横顔に出会ったことがわたくしをたいそうしあわせな気持ちにしてくれたのです。そして、実際この世もまんざら捨てたものでもないというさらなる希望に溢れた心の膨らみを覚えたのでした。神聖ないのちの宮居を生きるに相応しい人がここにいる、という純粋な悦びに包み込まれていたのです。

  この世は結局、聖なるPLEROMAの浄らかなエネルギーの現れであり、人間においてそれは究極的には深い精神性として顕現するものなのでした。だからこそこの世であのように深い精神性をたたえた若い女性に出会うこともできるのでした。この世はつまるところ精神的な悦びに満ち溢れた世界なのでした。ただ、わたくしたちにそれがそうとなかなか理解することができないだけのことなのです。ですから、この世の根源的で究極的なその精神性に気付きさえすれば直ちに、この世はわたくしたちの前に、どこまでも聖なる精神的悦びに満ち溢れた世界として立ち現れてくるのでした。

  わたくしはそれからもときどきその若い女性のことを思い出しながら、精神のことについて思いをめぐらせてみました。この神聖ないのちの宮居の、もっとも根源的な聖PLEROMAの浄らかなエネルギーは、もっとも根源的な精神機能すなわち全一統合機能をもっとも純粋に内在させており、また、それをもっとも完全な状態で保ち続けているのでした。その完全な、いわば精神そのものの場であるPLEROMAから生まれたこのわたくしたちの宇宙のあらゆるものやこと、たとえば光やクオーク、原子や分子、またそれらの集まった銀河や星、さらにはさまざまな命あるものたち、そしてまた、時間や空間も、人間の知的な働きもさらにはその精神的な全一的統合機能も、あらゆるものやことのことごとくが、この宇宙の母なる根源的精神そのものの現れであり活らきに他ならないのでした。まさしくこの世のあらゆるものに内在する精神性は、この世のもっとも本質的な働きなのでした。そして、わたくしたち人間においても、もっとも本質的な人は必ずもっとも精神的な人になるのでした。つまり、もっとも本質的でもっとも精神的な人こそがこの神聖ないのちの宮居であるこの根源的な精神世界に生きるにもっとも相応しい人なのでした。 

  やがてわたくしは宇宙の根源である聖PLEROMA(プレローマ)の浄らかなエネルギーがそのまま完全な精神であり、我執あるいは部分的な偏りによって汚されていない透明で円満な精神であり、浄らかな悦びに満ち溢れた精神であり、全一的でいかなる対立もない広やかな精神であり、一切万象を生み出してしかもそのすべてを優しく包み込む無限の愛であり、この世のあらゆる不幸や悲劇の種を取り除く最高の知恵であり、さらには、自らが生み出したものをふたたび自らへと一体化させる永遠にして究極的な純粋精神でもあると確信するようになりました。そして、人間として最も本質的な希望は、自分の内なる精神世界に気付き、その精神が聖PLEROMAの完全精神と一つとなるようにと、その生涯にわたって精進し続けることの中にこそあると信じるようになってまいりました。すべてのものが聖PLEROMAの完全精神において一体化することがこの世の本来あるべき姿であり、また、わたくしたち人類の目指すべき究極的なあり方なのでした。この世界のあらゆる人々が精神的に高まり続けることが人類の本質的使命なのでした。そして、人類がこれまで築き上げてきた我執と欲望を中心とした文明の流れの向きを逆転させ、浄らかな精神を中心とした、真の知恵と愛に満ちた新しい文明を築き上げていくことこそがこれからの人類が目指すべき目標なのだと思われてくるのでした。

  わたくしは、毎朝、家を出て会社に向かいながら、この世のあらゆるものは聖なるPLEROMAの純粋エネルギーから成っている、この世のあらゆる人々もまた聖なるPLEROMAの純粋エネルギーから成っている、時間も空間も、銀河も星も、大地も水も空気も、あらゆる生き物も、わたくしたち人間の精神ですらも聖なるPLEROMAの純粋エネルギーから成っている。つまり、この世のありとある一切のものは聖なるPLEROMAの純粋エネルギーの顕現であり、結局わたくしたちはみな聖なるPLEROMAの純粋エネルギー界に生きている。そしてもし、わたくしたちがみな、この世界が聖なる世界だと意識して生きることさえできれば、わたくしたちの生き方が変わり、さらには地球社会全体も大きく変わることができるだろうに、と思うのです。
  人はその世界観が変わればその生き方も変わる。そして、昔の人たちが考えたように、この世界の本質はどこまでも聖なるものであり、その聖性に相応しく生きることこそがわたくしたち人間の本来あるべき姿なのでした。
  しかし、わたくしたち現代人の多くは我執にとりつかれて身勝手の限りを尽くしながら聖なる本質を汚し続けています。そして、その我執の最たる形として、聖なる土地や自然を私的に所有し合い、お互いに競うようにしてより多くを所有しようとし、より多くを支配しようとし、より多くを自分の意のままに浪費しようとしているのです。

  ところで、一度限りを条件に与えられたこのわたくしたちのそれぞれの人生は、ただ表面的に生きるには余りに貴重なものです。わたくしたちは無限の高さと無限の広がりと無限の深みをもつ聖なる世界の中に生きており、ただ日常的な損得や快不快や享楽に囚われて生きるには、わたくしたちの人生は余りに貴重なのです。ましてや、わたくしたちのいのちの本質を成している浄らかなエネルギーを、わたくしたちのとりとめのない欲望追求によって汚し続けるとしたら、これ以上愚かしいことは他にないのです。わたくしが今一番恐れていることは、地球温暖化の傾向が年を追うごとにさらにはっきりとしてきているということのほかに、現代人の排出するさまざまな汚染物質が、大気をめぐるものも、大地に溜まったものも、川や湖などの陸上の水系に溶け込んだものも、結局は地球上を循環しながらすべてのものを内に溶かし込む水によって最終的に海に蓄積され、光の届く海面近くに生きている植物プランクトンをはじめとして、その海に生きているあらゆる生物の体を食物連鎖的に汚染し、また、それらの海の生き物を飼料として食べさせられる家畜などを通して間接的に、また、それらを直接食べることによって直接的に、わたくしたち人間の体内が汚染され続け、ついにはそれがわたくしたちの身体の大切な免疫系や神経系や生殖系や遺伝系に異常をもたらし、やがてはそれが、水の中から生まれ、水によって生かされているわたくしたち人類が、同じように水の中から生まれ水によって生かされている他の多くの地球上の生き物たちをも道連れにしながら、絶滅への急斜面を為す術もなく滑り落ちていくことなのです。それは余りに愚かしく、余りにもったいないことだと思うのです。この地球上の40億年にわたる聖なるいのちの本質的な営みを、われわれ現代人の欲望に眼の眩んだ底なしの愚かさによって大きく損なうことになるのだと思うと、のんびり遊んでなんかいられない気持ちに駆られてしまうのです。一日も早くこのような反本質的な現代文明の流れの向きを変えて、生きとし生けるものたちと共にわたくしたち人類も生き延びることができ、みんなが平等にそれぞれの本質を生き合うことができるような地球社会を築いていくことに力を尽くさないではいられない思いに駆られるのです。そのために、これまでの文明を乗り越えて、新たに、真に本質的な、この神聖ないのちの宮居を生きるに相応しい精神文明を築き上げていかなければならないと心の底から願うのです。気が付いた者が気が付いた時からそうしていかなければならないと思うのです。

  考えてみれば、文明以前の人たちはみな素朴な形で、自然の懐に抱かれ、その恩恵に浴しながら、その自然の恵みに対する感謝の念を忘れることなく、それぞれの集団の中で暗黙の本質的なルールの下で、生活に本当に必要なことだけをみなで共同で行い、また、手に入れた食べ物を平等に分け合い、リーダーの下で平等に暮らしながら、注意深く、しかし平穏な日々を送っていたのでした。そこには利己主義の行き過ぎもなく、度を越した貪りもないのでした。すべては大自然との調和と、人と人との調和の中で営まれていたのでした。

  しかし、やがてそのような穏やかな世界に、大自然の本質を理解することのできない、自己中心的欲望に囚われた族が出現します。そのようないわば精神的出来損ないである強欲な族が、それまで大自然の本質的なルールに則って人々を導いてきた真のリーダーたちにとって代わり、いつしか人々を力で支配し始め、またさらには、さまざまな策略によって徐々にその支配範囲を広げていきます。そして反本質的な力と詭弁とを駆使して自分たちの支配の正当性を主張し始め、さらにはそれを社会的に伝統化し既成の事実として慣習化させていきます。そして、絶える事のない戦いを通して、やがて王侯貴族が生まれ、地主が生まれ、さらには近代国家が生まれ、資本主義が生まれ、世界中に植民地を作り、本質を無視した自己本位の貪りによって自然と人間を搾取し続けながら、さらに自然を破壊し、人間の本質を損ない、今や、いつどのような災いがわたくしたち人類の上に降りかかってきてもおかしくない状態にまで立ち至らせてしまいました。このように、現代のあらゆる混乱と対立と危機が、文明以前の遠い昔に現れた、本質を理解することのできない、野獣よりも性質の悪い、一握りの強欲な族の自己中心的行為に端を発しているのです。

  このような、人類と生きとし生けるものたちに災いをもたらす反本質的な文明の流れを塞き止めて、一日も早く、大自然の本質的法則に則った、新しい真の文明を築き上げていかなければならないと、今、神聖ないのちの宮居に生きながら心の底から思うのです。人間の身勝手な欲望の追求に基づいた愚かしい社会のルールと、既得権益を持つ者に都合よく仕組まれた社会のシステムと、浅はかな政治家や利にさとい企業人やあらゆる分野のご都合主義的お歴々がたの権謀術数、そしてそのようなルールやシステムや、特権を貪り策を弄する者たちと、そのような策謀に踊らされる大衆といった現代社会の既成の図式を打ち破り、これまでの、個人的利益や、企業的利益や、地域的利益や、国家的利益などといった部分的な利益に囚われることのない、そして誰一人として支配したり従属させられたりすることのない、人類全体・地球生命系全体の自由で平等な本質的繁栄を生み出してくれるような、いわば、本質的ルールと社会的仕組みの下で、本質を深く理解した真のリーダーたちと、本質的な認識を共有しそのルールを守るすべての住民たちの手によって自治・運営された地域社会が相互に結び合った『地球ネットワーク世界』を築き上げていかなければならないと思うのです。

  ところで、この神聖ないのちの宮居を正しく生きていくためには、人は誰でも、自己中心的な狭い意識の殻を打ち破り、この縫い目のない全一世界と一体となって永遠そのものを転じていかなければなりません。しかしながら、人はなかなか自分の狭い意識の殻を打ち破ることができず、いつまでも全一的な永遠世界に出会うことができないでいるのです。そして自分の内なる永遠を転じることなく表面的な日常生活に埋没したままこの世の生を終えてしまいます。人は誰でも、自分の狭い意識の殻を打ち破ることさえできれば、浄らかな根源的エネルギーの変容に他ならないこの全一的永遠世界との照応を生きられるようになるというのに、それを妨げるさまざまな個人的な因子や社会的な因子が働いて、なかなか精神的な光溢れる永遠世界へと抜け出すことができないでいるのです。これはほんとうにもったいなく、また、口惜しいことだと思うのです。
人の命は結局はかなく、いつこの世を去る時が来るか誰にも分かりません。

  今日の昼近く、わたくしは新宿駅南口から代々木駅へと向かう道を一人歩いていました。穏やかに晴れた秋の日の、柔らかな日差しを浴びながら、すれ違う人々の顔を見るともなく見ながら歩いていると、一つの新しい感覚に包まれたのでした。
  それは、わたくしの頭のすぐ上に永遠の中心のようなものが生まれ、それに向かってあらゆるものが融け込んで行くような感覚なのです。あるいはそれは、その永遠の中心から出た聖なるオーラのようなものによってこの世のあらゆるものが包み込まれているといったような感覚なのです。わたくし自身もその永遠の中心から伸びたオーラによってすっぽりと包まれています。その時、他のすべての人たちや風景などと同じように、わたくしもまた永遠の中の一つの情景となっているのでした。わたくしを含んだあらゆるものがそのままその永遠の中で縫い目のない一続きの情景を成しているのです。そして、その永遠の中では、人の世の善悪や美醜などといった相対的な区別は、全体の絶対的な世界にすっかり融け込んで消え失せています。永遠の中では全てが一体・平等でいかなる対立もないのでした。自分という感覚もその永遠の中に融け込んでしまい、そこにはただ純粋透明な永遠感覚だけが在るのでした。

  透明な、全き永遠は、どこまでも超越的に、あるがままの現実世界をそのあるがままに包み込むのでした。現実世界の個人的で微細な心理的、肉体的、家庭的、社会的な事実を、そっくりそのまま抱擁するのでした。と同時に、永遠は自らの内なる法則に従って、この世のあらゆる現象の中に、超越的な完全調和が実現するようにと、絶え間なく祈り続けるのです。人間的な恣意を超えて、純粋で浄らかな全き調和が世界の隅々にまで宿るようにと祈るのです。この世のすべてが永遠に相応しく転じていくようにと祈るのです。人間社会のあらゆることも、永遠に相応しく、全き調和の中で、浄らかに転じていくようにと祈り続けているのです。

  わたくしがこの純粋透明な永遠感覚に包まれるのを感じてからは、いつも、生死を超え幸不幸を超えた、この超越的な感覚の中に居たいと願うようになりました。自分の精神をこの純粋透明な永遠と一つに同化して、どのような現実の中にいても、この現実をそのままそっくり内に包み込む超越的で絶対的なこの永遠の完全調和の中にいたいと思うようになったのです。生活の隅々にまで浸透した永遠のあらゆる瞬間を、全一的な調和で満たしたいと希ったのです。もともと、精神とは、抽象的な、あるいは揮発する薄いガスのようなものではなく、この大自然と人間的行為のすべてを含んだ全一的で統合的な活きなのですから、まさしくわたくしたちのこの精神は永遠そのものの活きに他ならないのです。つまり、永遠と一体化した精神こそが、わたくしたち人間の本来あるべき精神の姿であり、活きでもあるのです。そして、永遠はこの世の無限無窮の真実そのものであり、この永遠と一体となったわたくしたちの精神は真実を歪みなく映す真理そのものの活きに他ならないのでした。この世の真実と真理は、人間の恣意にかき乱された日常的な生活の中にではなく、このような生活を内に包み込みながらも、それを超えて超越的に転じ続ける無限無窮の永遠と、このような永遠と一体化したわたくしたちの超越的な精神の中にこそあるのです。そしてこのような精神は、自分の愚かしさや人間社会の愚かしさを静かに受容して一言の文句も言わずに生かしてくれている永遠の、その無限の優しさに感謝し、また、自分と人間社会の底なしの愚かしさを超越的に浄化し続けてくれる永遠の、その透明な祈りを共に祈る祈りでもあるのでした。そしてまた精神は、この大いなる永遠のいのちの全一的な体系を生きているこの一瞬一瞬(ひとときひととき)の自分のいのちの展開に、限りなく深い悦びを感じながら生きてもいるのでした。

  このような永遠感覚の中にいると、いつしかわたくしの内なる精神的ないのちは永遠そのものと静かに共鳴し始めるのでした。まずは、身近にあるあらゆるものと共鳴し始め、その密やかな共鳴がさらに一刹那の内にこの世にある一切のものと共鳴し始めるのです。あらゆる物と共鳴し、あらゆるいのちと共鳴します。そして、その共鳴は地球一杯におよび、宇宙一杯におよび、ついにはPLEROMAの無限無窮の完全エネルギー場にまでおよびます。わたくしの内なる精神的ないのちがこの世の一切と共鳴し、共震し合うのです。そうなるともう、この世の一切は至るところで暖かい春風のような快い調和の霊気に包み込まれるのです。

  しかし、そのような感覚も次第に弱く薄らいでいき、いつしかいつもの日常的な感覚に戻ってしまいます。わたくしを取り囲んでいる現代社会がまだまだ永遠感覚を生きるには精神的に余りに未熟で、利己的で不透明な雑念と邪念に満ちているのです。その様子を眺めているとちょっと情けなくまた淋しくなります。わたくしたちの生活はなんといってもわたくしたちを包み込んでいる環境と一体ですから、環境に大きく影響されてしまうのです。自分が変わると共に環境も変わらなければ完全で持続的な永遠感覚を生きることができません。だからこそわたくしは社会の完全化を願って様々に考え、また常に祈るのです。わたくしたち人間は本来、現代人のように永遠本質を汚し続けるような情けない存在ではなく、もっと精神的に豊かに成長することのできる存在だと思うのです。また、そう信じていたいのです。もしもこれ以上成長することができないのだとすれば人類に明るい未来を望むことができなくなります。このまま愚かしい活動の果てにそれほど遠くない未来に自滅してしまうことでしょう。正直言ってわたくしも時々こころが弱くなったようなときなどに人間の未来を想って絶望的な気分に襲われることもあるのです。そんなことはないと否定しても否定しても否定し切れないような思いに囚われることがあるのです。現生人類の精神的限界を感じてしまうことがあるのです。少なくともこの国では人生の深みや神聖さのようなものが世代を追うごとに次第に失われていき、より薄っぺらで軽いものになっていくようなのです。精神的退化、精神的スラム化、精神的貧困化、精神のスポンジ化、空洞化...
  いえ、考えてみれば、これは何もこの国だけの問題ではなく、現代という時代の問題だと思うのです。わたくしたちの時代は存在の聖性を忘れてしまった時代なのです。大自然に対する畏敬の念や、今生きていることが他にかけがえのない無上の僥倖であることの自覚に欠けた、反本質・反聖性の時代なのです。このような時代には、社会は世代を追う毎に精神的に荒廃していきます。人生の本質的な活き活きとした方向性を見失い、徒に迷走し始めるのです。そして刹那的な快楽を追い求めるような生活の果てに、やがて精神的にも肉体的にも疲弊し、ついには自らのいのちを損なってしまいます。現代はそのような反聖性の悪循環にはまり込んでしまった時代なのです。この世界本来の、永遠の中の神聖ないのちの宮居からは遥かにかけ離れた、刹那的幻想に囚われてしまった時代なのです。このような現代の精神的な陥穽から早く抜け出さなければ、この世界はいつの日にか二度と立ち直れないほどの破局を迎えることになってしまうかもしれません。しかし、それだけはなんとしてでも避けなければならないのです。

  ところで、それはわたくしが町田駅前の繁華街を一人歩いていたときのことでした。すべてがわたくしの前に不意に明らかになったのでした。つまり、この世に存在しているものの全てが、そのあるがままで、常に、この永遠の中で完全であるということが、一点の疑いもなくわたくしに了解されたのです。このわたくしがこのままで完全なのであり、同じように、この世に生きているすべての人もまたそのあるがままで完全であり、動物たちも、またあらゆる植物も、そのほかこの宇宙に在る一切のものがそのままで完全であるということがはっきりと分かったのでした。それは、つまり、わたくしたち人間についていえば、わたくしや他のすべての人々の人間としての状態や価値などに全くかかわりなく、常にそうなのでした。わたくしが賢かろうが愚かであろうが、健康であろうが死の床に就いていようが、醜かろうが美しかろうが、社長であろうが掃除夫であろうが、金持ちであろうがホームレスであろうが、善人であろうが悪人であろうが、そのような人間的、社会的、相対的な条件に関係なく、すべての人が一人の例外も無く、みんなそのままで完全なのでした。つまり、この世の一切のものは、この永遠の中で超越的かつ絶対的に、常に完全なのでした。このことに気が付いているいないに関わらずそうなのでした。もちろん、自分がこのままで常に永遠の中で完全であることに気付いていれば、完全の中にもより完全であり、また、その完全性に相応しく生きていれば、完全な中にもさらに完全なのですが、そうでなくても、すべての人はやはり、この浄らかな永遠の中で、超越的・絶対的に完全なのでした。つまり、永遠の中に存在しているということは、そういうことなのでした。永遠はいつでもどこでも時空を超えて完全なのであり、その中に存在しているものの全て、また、その中で生きているもののすべても完全である外はないのでした。完全であること、このことはわたくしたちの意思に関係なくこの世に存在するもの全てにとっての祝福された宿命であり、この宿命から逃れられるものは何一つとしてなく、また誰一人としていないのでした。そして、つまるところ、人類がたちまち滅びてしまおうと生き延びようと、どちらの場合もそのままで完全なのでした。永遠の中のこの宿命的な完全さの中で、人はそれぞれ自分らしく生きていけばそれでいいのでした。そして、これは不思議なことだと思うのですが、自分の完全性に気付いた人はその時からその完全性に相応しく生きていこうとするものなのです。その完全性の中で、悦びと自信と安らぎに満ちて、生死すらも超えて、堂々と生きていくようになるものなのです。そして、この世のすべてを受け入れ、すべての人を受容し、許し合い、和解し合って生きていくのです。そこには最早いかなる対立もないのです。すべてはこの浄らかな永遠の中で完全であり、一体なのでした。

  このように、ひとたびこの世に在る全ての物、すべての生き物、すべての人間が、時空を超えて完全である永遠の中で、一つの例外もなく、同じように常に完全であり、完全であるしかないという嬉しい宿命の中に在るということに気が付き、それを実感し、さらにその自覚を深めていくにつれて、人間においてはこの事実に気が付いているかいないかということが、いかに一人一人の人生に大きく影響を与えるものかということにも気付かされてきます。このことにまだ気が付いていない頃のわたくし自身のことを振り返ってみても、それはもうはっきりと分かるのでした。自分が人間社会の相対的な価値付けを超えて、常にこの永遠の中で永遠と同じように完全であるということに気が付いていない頃は、いつも人間社会の常識的なものの見方に支配されて、自分で自分を卑小に判断し、必要以上に心身を萎縮させているのでした。自分を低く見積もり、社会の相対的な眼に従属して生きているのでした。本来の、永遠の中で完全な真実の自分から脱落して生きているのでした。それはなんという人生の無駄遣い、なんという愚かさ、もったいなさでしょう。自分が永遠と同じように完全であるということに気が付いてからは、もう、自分をいたずらに萎縮させたり、自信を失って卑下したり、あるいは、人を羨んだり、また、人を蔑んだりしなくなりました。人も自分もみんな同じようにこの永遠の中で、絶対的に完全なのですから、そのように、人間社会のつまらない相対的な価値付けに左右されて、自他を蔑んだりする必要がまったくないのでした。ただ、純粋に、自分自身の永遠の完全性を自覚を持って生きていけばそれでいいのでした。この自覚さえあれば、人生は、完全な中にも完全になるのでした。宿命的絶対的な完全性からいつしか自覚的超越的な完全性へと移行することができるのでした。そして、また、人は皆、この世での命数が尽きてふたたび土に返るとき、永遠そのものがそうであるように、無限無窮の、そして純粋にして全き、本来の完全性に帰るのでした。

  永遠の中で完全であるこの世界は、そのまま欠けることのない真実が充満している世界なのでした。この世の根源的実体であるPLEROMA(究極的真実の完全な充満の場)と同じように、この世界もそのまま『真実の充満の場』なのでした。そして、この世の在りと在るもの、生きとし生けるものたちは皆そのまま『真実の充満』に他ならないのでした。つまり、この世に在るすべてのものは、もともと完全円満な存在としてこの世に在るのでした。唯、皮肉なことに、もっとも高い知性に恵まれた人類だけが、その行き過ぎた自己中心性によって、本来円満な自らの真実を歪めてしまうのでした。みんなが生まれつき持っている、歪みのない円満な真実の自己を利己的な執着心によって醜く歪めてしまうのです。そして、本来、浄らかな真実に満たされたこの世界と自分自身を、際限もなく汚し、損ない続けているのです。

  ほんとうに、この世界と自分自身にもともと備わっている『 永遠の完全円満な本質 』に気付きさえすれば、この世も透明感溢れる浄らかな世界に戻り、自分自身もまた本来の真実の充満する完全円満な自分に立ち返ることができるのでした。ただただ、自己中心的な執着さえ無くせば、この世は本来あるべき真実に満ち溢れた完全性を顕わにしてくれるのでした。そうすれば、その後はただ無心に、自己中心的な歪みのない円満な自分を生きてさえいればそれでいいのです。そうすれば、やがて本当の自分の、自由で純粋で本質的な悦びを生き始めるようになります。それはこの世の始まりがそうであったような、また、穢れなき幼子たちが感じるような、少しも混ざり物のない、透明で純粋な生きる悦びそのものを生きるようになるのです。

  永遠本質に立ち返れば、この世には対立しなければならないものなど何一つとしてないのでした。自己中心に偏ることなく、純粋で浄らかな本質的悦びを歪みなく円満に生きていけばそれでいいのでした。本当にそれは簡単で単純なことなのでした。もともとこの世は少しの混乱もない、単純明快な浄土だったのです。そのような浄らかな世界を浄らかなままに生きていけば何も問題は起きないはずでした。ただただ、人間の自己中心的な偏りがこの世を汚し、ややこしく混乱させ、数知れない悲劇を生み出しているのでした。そんな、人間的な、わがままで込み入った作為をすっぱりと止めて、本来の自然的状態に立ち返れば、もっと直接的で、単純で、純粋で、深くて、活き活きとした悦びの世界に包み込まれるのです。そして、それこそが永遠本質を生きる者が生きるべき世界なのでした。光も音も風も色も、様々ないのちといのちの輝きも、心と心の通い合いも、この世のすべてのものが眼の前で純粋な悦びを伴って響き合っているのです。生きていることが純粋で透明な悦びとなって脈動しているのです。もう、これ以上何もいらないのです。何も付け加える必要がないのです。もう、欠けるもののない全き真実そのものが宇宙一杯に充満しているのです。

  わたくしはその時ふと、相対モードないしは日常モードと、絶対モードないしは永遠モードという一つの対をなす言葉を思いつきました。常識的に生きている時、わたくしたちは様々な人間的・社会的な価値判断に従っています。わたくしたちはそのとき日常的な相対モードを生きているのです。しかし、最早そのような相対的な価値判断から抜け出してしまって、永遠の絶対本質と一体となって生きているとき、わたくしたちは永遠モードないしは絶対モードを生きているのです。このような絶対モードに在る時、わたくしたちはいのちの母なる永遠の懐に包み込まれています。そのいのちの母なる永遠は人間の社会的・相対的な価値判断を超えた世界であり、さらにはわたくしたちの生死すらも超えた世界なのです。その中ではすべての物事が超越的・絶対的に転じていきます。そしてそれは同時に、全き真実と純粋な悦びとが共鳴し合う、無限の多様性に彩られながらも絶対的なハーモニーに満ち溢れている世界でもあるのです。そのとき、日常的・相対的な世界はなぜか淡い幻のように想われてきます。日常的な実体感がまるで嘘のように消え失せてしまうのです。永遠の中では、いわゆる人間的な世界は、わたくしたちの我執によって映し出された夢まぼろしの世界に過ぎないのです。そんな夢まぼろしの世界で感じる喜びや悲しみや自惚れや嫉妬などといった人間的感情も陽炎のようにはかないものに過ぎず、到底、真実の充満する永遠世界で味わう純粋な悦びに比すべくもないのでした。ただただ、永遠・絶対モードの中の真実と悦びに満ち溢れた世界だけが本当に在る世界なのでした。そして、この世界では、生きとし生けるすべてものたちがそのあるがままの状態で永遠に救われているのです。また、この永遠の懐に抱かれた世界では、あらゆる人々の心が深い安らぎと悦びに満たされているのでした。

  このように、わたくしたちが永遠・絶対モードに在る時、まさしくこの世は神聖ないのちの宮居に他ならないのでした。また、日常的・相対的モードに在る時でも、やはりそうなのでした。わたくしたちがどのような生存のモードに在ろうとも、真実においては常に永遠・絶対世界に抱かれているのであり、神聖ないのちの宮居に生きているのでした。あるいは、日常的・相対的モードは、いつも永遠・絶対世界に大きく包み込まれ、永遠・絶対世界によって照らされているといってもいいのかもしれません。このようにして、わたくしたちはいつも永遠・絶対世界に抱かれているのであり、いつも神聖ないのちの宮居に生きているのでした。この真実から逃れる方法はどこにもないのでした。わたくしたちは安心して本当の自分を生きていけばいいのでした。小さな自我に閉じ込められた自分ではなく、永遠に寄り添い、永遠と一つの、境界のない大きな自分を生きていけばそれでいいのでした。まずは、日常の側から永遠・絶対世界に抱かれ、やがていつの日にか、永遠の側から日常生活を自由に生きられるようになればそれでいいのでした。

  ところで、わたくしたちは普通、日常的生活を生きています。それは、習慣化してしまった、また、いろいろな世間的な常識や人間関係に応じてそれぞれがその人なりのペルソナ(仮面)を作り上げて生きている世界なのでした。そして、それはしばしば自分自身にとって違和感を抱かせるものでもあります。つまり、日常的な自分は往々にして本当の自分ではなく、いつも他者の目にさらされて生きている世間向きに作り上げられた自分なのです。さて、そのような時、もし、その人が生きている社会が、生の本質を中心として築かれていないとすれば、そのような環境に生きる人たちのペルソナは否応なく強いストレスにさらされることになります。そして、そのような状態がいつまでも続けば、やがてその人は心身ともに疲れ果て、ついには病に倒れてしまうことでしょう。しかし、そのとき、日常世界から抜け出して、本当の自分を純粋に生きることができればどうでしょう。永遠・絶対モードに切り替えることができれば、それも可能です、なぜなら、その時人はあらゆる日常的・世間的・相対的な設定を超越して、浄らかな絶対世界に包まれるのですから。浄らかな絶対世界では、もはや何一つとして対立するものがなくなります。すべては人間的な価値判断を超えて、どこまでも浄らかな現象となるのですから。すべてが善悪美醜を超えて、浄らかなエネルギーの浄らかな変化過程となるのですから。すべては自分と一体の、神聖ないのちの宮居となるのですから。その時、存在は純粋な生の悦びとなるのですから。永遠の側から、日常世界を生きるとき、日常の不完全な世界は不完全なまま、浄化されます。自分の精神が永遠本質と一体となって浄化されることによって、常識世界全体が自分の精神を通して浄化されるのです。自己世界はそのまま浄土になってしまいます。それは、一つの自己世界の、本質的な完成です。もちろん、人類社会全体の完成には程遠いのですが、それでも、やはり一つの自己世界の完成には違いないのです。人類全体の完成には、人類全体が一人一人、自己世界を自らの精神の浄化を通して本質的に完成させ、また、人類社会全体の社会的仕組みを本質化しなければならないのですが、それはまだまだ遠い先の夢なのです。しかしそれでも、今ある不完全な現実の中で、自分の心を永遠本質の側から浄めることによって、自己世界を浄土にすることができるのです。現実世界の中で悩みながら、しかもその悩みから抜け出すことができるのです。本当の自分を生きることができるのです。

  永遠・絶対モードでは、五官で感じるものが本質化します。その中でも特に目に見えるものが本質化します。本質化すると、目に映るものはすべて浄らかなエネルギーの現われと見えてきます。人も、通常の見え方の背後に本質が現われます。つまり、自分の好みや世間の常識的な価値判断によってパターン化された、美醜・善悪・賢愚などの相対的な見え方が次第に透明化して、見えるそれぞれの人たちの根源的で本質的な、浄らかなエネルギーそのものの直接的な変容として感じられてくるのです。人を世間的生活の中で作り上げられたペルソナとして見たり、ないしは顔かたちや身につけているものなどの外観によって、さらには自らの意識に染み付いた世間的・時代的な価値観によって半ば自動的に判断してしまう習慣化した意識の癖のようなものから次第に解き放たれて、そのような先入観によって汚される以前の、それぞれの人の浄らかな本質を直(じか)に見るようになっていくのです。そしてその時、直(じか)に見られた人の本質と、それを見ているわたくしの本質は、どこまでも一体の、同じものなのです。そこには対立すべきいかなる理由もないのでした。

  とはいいながらも、世の中には、どうしてもそのまま放置しておけないこともあります。利己主義からくる暴力やいじめや貪りです。そのようなことに対してはいつまでも心地よい永遠モードに安住したままそれを放置しておくことはできません。世間的モードに戻り、それと対峙して、再びそれを本質状態すなわち全一調和状態に引き戻す必要があります。なんといっても本質は、永遠モードにあっても世間的モードにあっても、あるいは絶対界にあっても相対界にあっても、常に世界の中心となるものなのですから...
  いつも本質に従うという、この永遠のルールだけは常に守り、決して曖昧なままに放置しておいてはならないのです。

  このようにして、わたくしはようやくこの頃ほんとうに、わたくしたちの生きているこの神聖ないのちの宮居、永遠にして絶対的な本質世界の真実の相(すがた)と意味に気が付き、その理解を深め、さらにはその聖性に相応しく生きていきたいと願い始めているのでした。何の変哲もない日常的な生活の中で、さらに深く永遠本質と一体となって生きていきたいと祈り始めているのでした。できる限り本質的な完全調和状態に近く生きていきたいと希い始めているのでした…


   ・・・ホームページから転載・・・


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