No.3630 礼 奈  Ⅱ ア  ク   ア

  
  礼             奈

    光と水のPLEROMA



    Ⅱ ア  ク   ア



 しかあれば、水はこれ真龍の宮なり、流落(るらく)にあらず。流(りう)のみなりと認ずるは、流のことば、水を謗するなり。 

   正法眼蔵第二十九  『山水経』


 純粋な泉から生まれるものは 一つの神秘だ。 
 詩心さえも その神秘を解くことはほとんどできない。

  ヘルダーリン 『 ライン川 』



       1

 
――― 礼奈、わたしはますますあなたへと深まっていく。絶えることなきあなたへの語りかけと、いつの頃からか始まったあなたへの密やかな祈りとを通して、わたしはますますあなたへと深まっていく。         
 わたしはまず、あなたなる『青い睡蓮』を通して、天上的PLEROMAに連なる精神の聖なる光へと導かれたのでした。                    
 その光は、自己中心的な硬い殻をようやく破り、この世にたまゆら生きることを許された自分の生命が、万象の根源であるあの世的な、永遠にして聖なるものと一つに融け合うことによって、自ずから内に輝き始めるものなのでした。                      
 しかし、礼奈、わたしはさらに今、よりこの世的で、ありふれた存在―――その中で睡蓮の根を養い、その上に円い浮葉を放射状に浮かべ、その葉の間から天上的な光の花睡蓮を咲かせる『水』へと深まろうとしています。  
 わたしは長い間、あなたの絵の中の華ともいえる青い睡蓮の花にばかり眼を奪われていたのですが、ふと気がついてみれば、その花を咲かせためには必ず水が必要なのでした。そして、そのような眼であなたの絵を見つめ直してみると、そこには睡蓮を養い育てている水のさまざまな相がさりげなく、しかし無限の豊かさをもって表現されているのでした。それはその表面のすみずみに、またさらにその深みへと浸透(しんとう)するように、朝日の淡い黄金色に染まった空と雲を映し、草木の緑を映し、あたりに多様な生命の気配を漂わせ、風の動きにつれて細かに波立ちながら、ひそかに睡蓮の開花を支えているのでした。         
 わたしは、そのような水のより深い本質に心を寄せるようになってから次第に、天上的な精神の花を咲かせているこの世的な水に象徴される、相互に多様に関わり合い支え合っているあらゆる存在に対し、心の眼を開き始めたのでした。                      
 礼奈、まことに、聖なる精神の花である睡蓮は、この世的存在である水の中から、その水を超えて咲き出でるのですが、一方、そのように自らの存在を捧げて、自らの上に聖なる睡蓮の花を咲かせる水もまた本来、深く天上的聖性に属していると言えるのではないでしょうか。 

―――礼奈、あなたは何と水に近く生きていらっしゃったことでしょうか。城趾公園のお濠に面した家にお生まれになったあなたは、幼い頃から、お父さまやお母さまの腕に抱かれてお濠を眺めてお育ちになった。早朝の静かな水面を眺め、昼日の明るい水面を眺め、夕方あるいは夜の暗い水面を眺めながら大きくなられた。       
 あなたはまだ幼い頃から水にまつわる全てのものに親しまれた。それは陽光と戯れる水であったり、風と戯れる水であったり、水草を養い、小さなエビや虫たち、あるいはさまざまな魚たちを養う水であったりしました。あなたは手で水と戯れたり、足先で水と戯れたり、さらには夢の中の深い意識の中で水の神秘に親しまれた…     
 あなたのまわりには生まれた時からいつも生命を育む水のにおいが漂っていたのでした。

―――礼奈、あなたの優しいまなざしが、その真実の深みを増しながら、わたしのまぶたに浮かんできます。あなたの清らかな瞳はいつも、分かちがたく関係し合ったこの世の全一的な真実を映して美しく輝いていました。それは世の中のあらゆるものをそのあるがままに映しながら、その汚れに汚されることなく、水の中から水の上へと咲き出るあの聖なる花 青い睡蓮のように澄み切っているのでした。 あなたのまなざしは、あなたとこの世のすべてが、あなたの透明な心の中で一つに融け合って醸(かも)し出された全一的なまなざしでした。その中では、意味のないものは何一つなく、ありとある一切のものは一体であり、その全てに無上の価値があるのでした。            
 まことに礼奈、あなたの瞳はいつもこの世のあらゆる相対性を超えた、究極にして絶対の、永遠の神秘そのものを映していらっしゃるのでした。

―――礼奈、あなたは一瞬の中に永遠を生き、微小なものの中に宇宙を見、自己とともに一切万有をPLEROMAに包み込んだ、境界のない無窮神秘そのものとなって、この世に顕現していたのでした。ところで、その全にして一なる無境界の神秘世界は永遠の中で円環(めぐ)り続けます。そして、その永遠の円環(めぐり)の中で、この世の生は、自らの内に死を取り込みます。自らの死を受容した生はもはや利己に走ることなく、この世本来の本質的な浄らかさを生きます。その上、しかも、この世の表面的な現象としての悪をただ一方的に裁くのではなく、その罪を本質の深みによって清めようとします。そしてふたたび、あらゆる存在の本来の姿である聖なる全一的円環へと導くのです。         
 礼奈、あなたはそのような、永遠に円環する、無窮神秘の、この世的な現われなのでした。

―――礼奈、本質すなわち全一的真実界には、水やエネルギーなどのようにもともと境界すなわち形がありません。そのような形を持たない本質に形を与えるのはさまざまな容器(いれもの)です。            
 一方、人間社会において、本来形のないわたしたちの人生に形を与えるのは、文化や習慣や職業などといったものです。そして、そのような文化的伝統や社会的習慣や職業などから切り離されてしまった時、人はしばしば不安を覚えます。                   
 ところで、礼奈、もしもそのようなわたしたちの本質に形を与える文化や習慣や職業そのものが、本来あるべき姿から大きく逸脱してしまっているとしたらどうでしょうか。その中で生きるわたしたちの生存のあり方そのものが、その時そのまま、わたしたち自身の本質的な生存を脅かすものとなってしまうのではないでしょうか。        
 しかし、礼奈、本質とは一体何なのでしょうか。具体的に何を指しているのでしょうか。          
 礼奈、本質とは、それなくしてはわたしたちの存在そのものが在り得ない、この生命に必須のものではないでしょうか。つまり、人間の存在に先行する全てのもの―――この宇宙を構成する光やクォークや原子や分子や大地や海や生命あるものの全て、すなわち、この大自然の全一世界の一切―――ではないでしょうか。そして、その全一的な本質の中から、それを無償で与えられた環境として、わたしたち人類がこの世界に出現することができたのでした。このような本質は、わたしたち人類をも含む一切を包み込んだ、全てが一体となった渾然たる一つの大きないのちに他ならず、それは他の何ものとも切り離すことのできない聖なるいのちであり、何一つとして汚してはならない永遠清浄(えいえんしょうじょう)のいのちなのではないでしょうか。しかし、わたしたち人類のみが、その本質世界の深い恩恵のただ中に生かされていながら、その限界を知らない欲望のおもむくままに、本質の正しい流れから逸脱し、あろうことか、みずからの本質世界を勝手に切りきざみ、それを汚し続けているのです。          
 礼奈、わたしたち人類は今、物質的な豊かさや生活の便利さを手にした代償に一体何を失ったのでしょうか。......多くの森を失い、山を失い、海や川や湖沼の本来の清らかさを失い、汚れのない砂浜や干潟を失い、清浄な空気を失い、健康な大地を失い、そこに住んでいた多くの鳥や魚や動物たちを失い、そして何よりもわたしたちは浄らかにそして生き生きと輝く自らの健康な心と、真実に深く根ざした生命の純粋な本質的歓びを失ってしまいました。                       
 現代文明は物質的な豊かさと便利さのために、生命の母胎である地球の自然環境そのものを破壊してしまい、そのような壊れた自然の中で、わたしたちは本質への感謝と畏敬の念を忘れ、心は病み、その生命は深くむしばまれています。そして、正気を失った酔いどれのように、その時その場限りのまがいものの享楽にうつつを抜かし、清らかな生命本来の珠玉の時を虚しく過ごしているのです。        
 礼奈、わたしたちの時代の文明は人間の本質を高めることがありません。むしろ本質から乖離(かいり)し、本質を汚し続けます。そのような文明に一体どのような益があるでしょうか。どのような未来があるでしょうか。わたしたちは、子供たちや孫たちのためにも、このような欲望をあおり、自然を汚す文明が生み出した現代社会の構造を一日も早く清算して、お互いがお互いの本質を支え合い高め合い豊かにし合う、全一的で清らかな本質に根ざした新しい世界を築いていかねばなりません。

―――礼奈、このようなことがこの世にはあるのですね。
 それは都心から帰る途中でのことでした。急行から各駅停車に乗り換えたわたしは、ドアの左脇の座席の前に立って電車の発車するのを待っていました。      
 眼の前の座席には1才位と思われる女の児を胸に抱いて、まだうら若い女性が座っています。わたしの眼に映るその女性の優しさにあふれた眼差しの中に、かすかにあなたの面影を見たように思い、ふとわたしは心の揺れるのを覚えたのでした。                  
 やがて電車は動き出し、わたしはつり革につかまって窓外に眼をやりながらも、いつしか心の眼ではあなたのなつかしい面影を記憶の中に追っているのでした。あれからすでに二十五年の歳月が過ぎ、今ではわたしも白髪の目立つ年になってしまいました。それでもなお、あなたの面影はあざやかにわたしの脳裏に浮かんできます。その余りのあざやかさに、やゝともすると眼の前の現実世界が淡くかすんでしまうほどです。そしてわたしの心は深く満たされ、眼の前の世界に対しても優しい感情でいっぱいになれるのです。

 その時、それまで眼の前の女性の胸に顔をうずめて抱かれていた女の児が、ふとその顔を上げてわたしの方を見上げました。その瞬間、わたしは自分を忘れるほどの驚きと喜びに打たれたのでした。その児は、礼奈、写真帳の中で見た幼い頃のあなたに瓜二つなのでした。わたしはその児があなたの生まれ変わりではないかと一瞬わが眼を疑いました。このようなことが現実にあろうはずがないと分かってはいるのですが、何度見つめ直してもその児はあなたの幼い頃の写真の面影と重なり、さらにはその児の成長した想像裡の姿がわたしの知っているあなたの面影と重なり合うのでした。        
 わたしはしばし恍惚としたような思いでその児を見続けました。するとどうでしょう、驚いたことにその児が母親の胸から伸び上がり、わたしに向ってだっこをせがむように両の腕を伸ばしてくるではありませんか。その児の瞳は清らかに輝きながらわたしの眼を見つめています。わたしには過去と現在とが一つに融け合った永遠そのものの中に溶け込んでしまったかのように感じられました。このような所で、このような時に、あなたとふたたび出会えるなどとどうして信じられたでしょうか。わたしは、ただただその不思議な感覚の中で、われを忘れてしばし呆然としていました。また、その時、心のどこかに、見も知らぬその児の母親への遠慮と、またその児を抱き上げる気恥ずかしさも働いていたでのしょうか、ついにわたしはその児のだっこの望みに応じることができないでしまったのでした。やがてその児の腕はあきらめたように引っ込められてしまい、ふたたび母親の胸の中に小さな身体を落ち着けたのです。       
 電車は次の停車駅にすべり込み、客の乗降を終えるとまもなくふたたび走り出しました。        
 女の児はやがてそのふっくりとした白い小さな手をのばして、すぐそばの手すりをつかむと、ドアのあたりを眺めたりし始めました。わたしはといえば、心の底から優しい気持ちになりながら、なつかしさいっぱいにその児の様子をあきることなく見つめているのでした。わたしの中の優しい気持ちはその児の母親にも通じていたと思います。なぜかわたしはその母娘と自分とが、この世で最も愛し合っている血のつながる親子のようにすら思われてきたのでした。              
 わたしはその時、確かに一点のしみもない不思議な幸福感にひたされていました。              
 しかし、電車はほどなくわたしの降りる駅のプラットホームにすべり込んでいきました。別れの時がきてしまいました。わたしは心の中でどこまでもその母娘といっしょに行きたいと希いましたが、やはりわたしの中の常識がそれをおしとどめます。           
 電車は停まり、ドアが開きます。降りなければなりません。わたしはドアに向って歩き始めながら、とっさに、手すりをつかんでいるその児の小さな手の甲に、わたしの中指の先をそっと押しつけました。その児のこれからの人生に大きな幸せをと祈ってのことでした。その瞬間、その児の瞳はふたたび驚いたように輝いてわたしの眼を見つめ返しました。わたしはその瞳に向ってありったけの優しさを注ぎ込みながら、電車を降りました。わたしの指先にはふっくりとあたたかいその児の手の甲の感触がいつまでも残ったのでした。        
 礼奈、ほんとうに今もこのようなことがこの世にはあるのですね......

                    

 モーリス=ラベル作曲 『 夜のガスパール 』


  第一曲『 オンディーヌ (水の精) 』

 ほの青い月の光に照らし出された湖とそのほとりに建つ城のあたりにかすかに妖婉な霊気がただよっている。
 薄闇の中で細かに波立っている湖面がその細波の一つ一つに月の光を映しながらキラキラ光っている。  
 お城の露台では虹色の衣装をまとった若い貴婦人が一人立ち、星の明るく輝いている夜空とかすかに震えながら眠っている湖をじっと見つめている。      
 雨も降っていないのになぜか男の部屋の窓ガラスには水滴が降りかかりそれが幾筋も伝い流れている。 
 人気のないその窓辺に若い女のおぼろげな影が浮かびあがり、やがて哀願するように話し始める。    
 『 ねえ、ねえ、月の光に照らし出されたあなたのお部屋の窓ガラスをそっと鳴らしながら降りかかる水滴はわたし、オンディーヌよ。そしてあなたの奥さんが眺めている湖の水の一滴一滴も、湖底の宮殿へと、うねりながら流れていくわたしなの。わたしのその宮殿は火と土と空気の三角形の中に水で造られているのよ。 』   
 女の妖しげな声はその声音も艶めき、さらに男の気を引こうとして、自分の父親が緑の榛(はん)の木の枝で水をたたくことや、姉たちがみずみずしい草の茂る島や、睡蓮やグラジオラスの咲き誇る湖沼や島々をその飛沫の腕で撫でたり、また、ひげを垂らして魚釣りをしているしおれた柳をからかったりすることなどを話し続ける。                
 やがてふと女は声の調子を変え甘くささやくように、自分のこの指輪をその指に受けて夫となり、湖の王としていっしょに湖底の宮殿へ来るようにと男に請い求める。                       
 その女の声に向って男が弱々しく震えるような声で、『 自分が愛しているのは、死に定められた人間の女の方なのだ 』、と答えると、オンディーヌはその答えに苛立ち、不意に涙を流したかと思うと突然かん高い笑い声をあたりに響かせ、そのまま青い窓ガラスを伝い流れる白い雨滴となってふっとどこかに消え失せてしまった......


       2


―――礼奈、水は無限の深さを幻視させます。原初の水ヌンの境界のない神秘的な深さを幻視させます。そして、その無限の深さの中にわたしたちの宇宙も漂っているのです。また、その宇宙の中であらゆる物質とあらゆる生命がいつ終わるとも知れない相互作用を繰り返しています。                     
 礼奈、わたしはこの無境界の水の中に漂っている自己感覚に陶酔します。母の羊水の中で浮遊していた胎児の頃を幻視して陶酔するのです。          
 礼奈、あらゆる生命は水の円環(めぐり)の中に生命を保っています。あらゆる生命は水を内に取り込み、それを内にめぐらせ、ふたたび外に排出します。水はある時は水蒸気となりある時は水となり氷となって地球上のいたるところを経巡ります。そしてこの地球上のすべての水は一体であり、その水の円環の中に生命を保っている生命もまたその水を通して一体です。     
 水はまたその構成元素である水素とも酸素ともなって宇宙に遍在しています。そして、時間をさらにはるか遠くにさかのぼっていけば、水素も酸素も、宇宙に存在する他のあらゆる元素と同じように、想像を絶する高温の中で、クオークやレプトンといった素粒子へと収斂し、さらにはX粒子となり、やがて全き光エネルギーへと高まり、そしてついには、わたしたちの想像をこばむ、宇宙を生み出す根源的母胎である、原初の混沌の水ヌン、あるいは一切万象の完全統合であるPLEROMA,あるいは認識することのできない真空の超越的エネルギーへと吸い込まれてしまいます。この世の一切は、わたしたちの認識のはるかに及ばない究極の神秘の中にその姿を消してしまうのです。              
 礼奈、この世の水は限りなく光へと高まり、やがてついには無なる神秘へと消え去ります。そしてわたしは今、あなたと共に、光なる精神を通して、その原初の神秘の中に安らかに憩います。光と水のPLEROMAなる原初の全き透明な全一的いのちの中に憩うのです。

―――礼奈、水とはいったい何でしょうか。
 エジプト神話の中で混沌の水ヌンは、その上に睡蓮の花を咲かせ、その花の中から創造神を生み出す万物の根源的存在でした。                
 また、古代インドの『 マハーバーラタ 』においても、水は、ヴィシュヌ〔創造神であるブラフマーを自分の臍(へそ)から伸びた蓮の花から生み出す眠る神〕が宇宙の瞑想の至福にひたりながらその上に浮かんでいる巨大なロータス池として、神々と万物の根底に拡がっているのでした。                   
 一方、古代ギリシャのミレトスのターレスは、一切の存在者がそこから生成しふたたびそこへと消滅していく万物の本源(アルケー)を水であるとしました。  
 さらに聖書においては、原初のカオスの水の面に神の霊が動いていたとされ、水は神の霊と密接に結びついています。又それは、ヨハネによる水のバプテスマやイエスによる水と霊のバプテスマに象徴されるように、人間の汚れと罪を浄めるものであり、又、ヨハネは御霊を『 生ける水 』と呼び、エレミアは主を『 生ける水の源 』と呼び、第二イザヤは水を『 神の救い 』そのものに象徴化しています。又、アウグスティヌスは、天地創造において天空の上と下に分けられた水のうち天空の上なる水を天使の世界と解し、それを地上の腐敗消滅から隔てられた不死なる水であるとしています。   
 このように聖書の中の水は、神の祝福と救いを表わす一方、ノアの洪水などにみられるように神の怒りと世の裁きをも表わしています。            
 日本の神道でも水は、神に奉仕したり神意を問うために必要とされるハライの中のミソギにおいて人間の罪や穢れを洗い落とす清めの水として用いられています。
 また、中国の老子は、「 上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し、水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず 」として、水を最上の善と称(たた)え、一方、禅宗においては、修行僧を雲水と呼んで、自我を立てることなく、水のように無心無差別の真法界(しんほっかい)に生きることを目指し、修行の生涯を送るための鏡としています。                 
 又、科学的には、水は、宇宙でもっとも早くできたもっとも軽くもっとも多い元素である水素と、地球の多くの生物の呼吸に欠かすことのできない元素である酸素とが結びついてできた、この広い宇宙に遍在する分子であり、さらには、原始地球を広くおおっていた原始の海の中で最初の生命を生み出したいのちの母胎であり、原始的な単細胞(原核細胞、真核細胞)から多細胞生物を経て魚類へと至る生命進化のゆりかごであり、今もなお地球上を循環して、あらゆる生物を育(はぐく)み続けているもっとも基本的な物質です。 


   クロード=ドビュッシー作曲 『映像第一集』


   第一曲 『 水の反映 』

 春のけだるい午後。柔らかな光に包まれた池の表面が、あたりの空気のゆらめきにつれて、ゆらゆら揺れている。あたりを時折涼しい風が吹き過ぎ、水面(みのも)に小波(さざなみ)が拡がり、やがて消えていく。
 ベンチに背をもたせ、そのような春の日の午後の、ゆったりと水を湛えた池の様子を眺めていると、いつしかその心地よい情景に抱かれてまどろみそうになる。

 その時、風の気配とともに太陽が雲間から顔をのぞかせる。                      
 池面に降り注ぐ春の陽光。複雑に交錯して拡がる細かな波紋に光が乱反射する。             
 その輝く波紋に波紋が重なり、さらにその波紋の重なりに光が眩しくきらめきはじける。                  
 その光の氾濫の中に不意に風が吹きつけ、圧しつけられたような波紋が新たに池面に拡がっていく。
 その水のゆらぎにつれて水中の藻が小さく揺れる。

 やがて風も収(おさ)まり、ふたたび細やかな水の動きにつれて濃淡さまざまな影と光の綾なす波模様がゆらめく。 
 風の向きの変化につれ、光の量の変化につれて微妙にその色や形や陰影を変えながらどこまでもなめらかに揺れ動く水の紋様......        
 ふたたび池の端の方から吹き寄せてくる涼しい風につれて、這うように漣(さざなみ)がおし寄せてきて、燦燦(さんさん)と降り注ぐ光のシャワーと交錯し光の粒子をキラキラ散乱させる。そしてついに池の中央で太陽の姿そのものを映してまぶしく煌めく円光とそれを囲んで拡がる光の暈(かさ)の中に溶け込んでしまう。 

 やがてふたたび太陽は雲の影にかくれて、あたりはおだやかな春の水をたたえた池のたたずまいにかえる。 
 水辺の樹々や水際のあやめ、水草や睡蓮の浮葉、そして青い空の広がりや白い雲など、あたりのすべてのものがなめらかな自然の鏡面に映ってゆらゆら揺れている。
 水の中をのんびりと魚たちが泳いでいる。水鳥が一羽、あとにシンメトリカルなくさび形の波紋を拡げながら、静かに水面を滑っていく。

 やがて陽も西に傾き始め、大気も光も水もたそがれ時のほの赤い静けさの中にゆっくりと融け込んでいく.....


       3


―――礼奈、もしもこの地球に水がなかったとしたならどうでしょう。月のように、海もなく川もなく湖もなく、沼も池もなく、雨も降らず雪も降らず、雲すらもないとしたならどうでしょう。                     
 この地球をめぐる水の大循環が消滅し、その水によって生命を保っているあらゆる生物の営みが幻のように消えてしまいます。                  
 水の中に生きているあらゆる魚たちがいなくなり、森も林も、熱帯のうっそうたるジャングルも消えうせ、砂漠の生き物たちの咽喉を潤すオアシスもなく、サバンナに生きるさまざまな野生動物たちの姿もなく、南極や北極の氷も消えうせ、ペンギンや白熊たちの姿を見ることもない。
 夕焼け雲や秋の紅葉を見ることもない。早春の芽生えを見ることもない。七色の虹が青い空に大きな弧を描くこともなく、滝が音をたてて落ちることもない。    
 野原を蝶が舞うこともなく、ダイヤモンドダストや樹氷もなく、雪の原野に丹頂鶴が白い息を吐きながら求愛の舞いを舞う姿もない。白鷺や白鳥たちの姿もない。うずらやチャボたちの姿もない。季節をいろどる花々やその花につどう蜜蜂もいない。ぶどう畑もなく、牧場もなく牛も馬もいない。コンドルやワシの空を翔(かけ)る姿もなく、小鳥たちの愛らしいしぐさや鳴き声もない。          
 人間世界のあらゆる営みも消えうせる。あらゆる男女間の笑いも涙も、愛や憎しみも、子供たちの無邪気に遊ぶ姿も歌声もスキップする姿も消え失せる。文化的、精神的な営みもすべて消え失せる。もはや音楽も絵画も詩も小説も生み出されることなく、いかなる祈りもない。   
 えゝ、礼奈、原始海洋の中から始まった四十億年にわたる地球上の生命活動のすべてが消滅してしまい、人間の精神がつむぎ出したあらゆる真実の言葉も消え失せてしまいます。                      
 そして、その後には、月のように乾き切った大地がこの地球を死の静けさとともにおおいつくします。 

―――礼奈、わたしたち人間もまた、他の生き物たちと同じように、この地球の一旅人にすぎません。いつの日にか人間もまたこの大自然から消え去ります。そんなはかない一旅人にすぎない人間が、その少しばかり発達した知性に驕り高ぶって、わがもの顔にふるまい、母なる自然に対し勝手気ままのし放題なのです。それはまるで正気を失った酔っ払いのようです。自分さえ一時を楽しむことができれば、他人や次の時代を生きる子孫がどんなに苦しんでもかまわない、他の生き物たちがどうなってもかまわないとでも言うのでしょうか。        
 礼奈、この宇宙はその誕生よりこのかた、その厳然たる法則に従って浄らかな円環的平衡状態を保ってきたのでした。それはあらゆるものが他のあらゆるものに相互に有機的に関係づけられた全一的な統合体であり、そこにはいかなる不平等もなく、一方的な行き過ぎも偏りもないのでした。                       
 しかし、人類がこの地球に出現し、やがてわたしたちの直接の祖先である新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)が都市文明を築き初めて以来ここ五千年ほどの間に、母なる自然に対する感謝を忘れ、愚かにもそれを支配し利用しつくそうとする強欲な種族が現れて森林を破壊し始め、やがて長いさまざまな文明的変遷を経て近代から現代へと時代が進む間に、神からすらも自由になった機械論的世界観を背景にして、人間中心主義的傾向がさらに強まり、あるいは産業革命あるいは自由放任的経済学、さらには帝国主義的植民地主義などの力ずくの国家観を経て、第二次大戦後において、さらに科学技術の加速度的な進歩や急激な人口増加などともあいまって、人間による自然破壊の勢いも増し、今やとどまるところを知らない大量生産・大量消費・大量廃棄の世界的拡大によって、地球はそのすみずみまで数知れないほどの化学汚染物質にまみれ、地球の生態系の複雑で多様な連鎖をになってきた多くの生き物たちが死に絶え、何十億年にわたって緊密に織り成されてきた大自然の生態系の網の目がいたるところで寸断され、自然の本質である全一的な平衡状態が大きく乱され、このまま進行すればそれほど遠くない未来のある日突然、生物が生きる環境としては回復不可能なまでに自然が破壊されてしまう危険さえ予想されるのです。           
 礼奈、自然には自然そのものが定める許容限度があり、その限度を越えてしまったとき、自然はみずからの法則に従って断固とした反撃を開始します。人間はそのことを知らないのでしょうか。あるいはまだまだこの位なら大丈夫だ、大自然の許容能力はもっとずっと大きいはずだとばかりにたかをくくっているのでしょうか。わたしたち現代人の自然に対する度を越した甘えと高慢がその命取りにならねばよいのですが。今や宇宙から眺めた地球は、その大地も海も無限に広いものではなく、むしろ無垢な処女のように汚されやすくもろいものでしかないことがはっきりとしてきたのですから......

―――礼奈、汚された川を眺めていると心に悲しみが湧き上がり、やがてそれが怒りに変わります。汚れのない天然の水を穢すのは他の誰でもなくわたしたち人間なのです。                       
 工場や家庭から出る廃水に泡立ちにごる水、紙やプラスチックやゴムや鉄などのさまざまなゴミを水面に浮かべたり川床に沈めたりしてあたりに異臭を漂わせながら流れる川水。 わたしたちは抗議する言葉をもたない生命の母なる水に勝手のし放題なのです。生命の大切な基盤を水に負っていながら何という忘恩行為でしょうか。わたしたち人間の恥ずべき無知、恥ずべき傲慢、恥ずべき貪欲が為せるわざなのです。自分たちだけの一時の豊かさと便利さのために、他のあらゆるものに対する配慮を忘れ、まるで悪鬼のように貪りつくします。火(エネルギー)を濫費し、大地や空気を汚し、水を汚すのです。そして大自然の聖なる調和が乱され、聖なる循環の輪があらゆるところで断ち切られ、聖なる自然のバランスが急速に失われます。  
 礼奈、水はわたしたち人間のためだけにあるのではありません。水はいのちあるものすべてを包み込む大自然の中でただその本性のまま全一的に転じているだけなのです。そしてその水が清らかに輝くところに、水から生まれたわたしたち生きとし生けるものの命も輝きます。しかし水が汚されればその汚された分だけわたしたちの生命も汚されます。わたしたちの生命が生き生きと輝くためには水が汚れなく輝いていなければならないのです。                    
 わたしたちは失われてしまった水の聖性を回復しなければなりません。今や汚しの水になってしまった水を一日も早く、その本来の、癒しと清めの水に戻さなければばなりません。わたしたちは決して自らの手で、人類の、また生きとし生けるものの未来を閉じてしまってはならないのです。 

―――礼奈、世の多くの人々はいつまでも表面的世界に酔い痴れていて真実の深みに心が及びません。人は自分の都合に合わせて、見たいものだけを見て、見たくないものはたとえ見えていても見ようとはしないのです。そしてわたしたちの世界はますます軽薄になっていきます。まるで世界全体が魔法にかかっているかのようです。世界は日々ますます自然から切り離された都市化の方向へと進み、そのような都市化が進行すればするほど人間の欲望の渦が大きく肥大し、その勢いも増していきます。そして大都会においては、人々はいつしかその巨大な欲望の渦中に為すすべもなく飲み込まれ、自分の本来あるべき本質とは別のものとなり、それをそれと意識することもなく、表面的な日常に流されたままその一生を終えてしまうのです。               
 礼奈、わたしたちの時代は、あるいは最も反自然的な時代ということになるのかも知れません。わたしたちは今、人類が自然の本質から最も遠く離れてしまった時代に生きているのかもしれません。わたしたちは自分たちの生活がどこか反自然的であることを自覚しながらも、現代の便利で快適な文明に酔い痴れ、反自然的な習慣から抜け出すことができずにいます。         
 ところで礼奈、わたしたち生命あるものは大自然と一体の本質的調和を生きてこそその生存を許されるのではないでしょうか。驕り高ぶって自然を浪費し汚す者、自然に対する感謝と畏敬の念を欠く者は、母なる自然の永遠調和を破る者としてこの地に生きる権利を剥奪されても仕方がないのではないでしょうか。

―――礼奈、まことにわたしたち人間の一人一人が小さな宇宙にほかならないのですね。わたしたち一人一人の存在の内には、まずこの宇宙が存在するための大前提として、まだ科学も解き明かすことのできない宇宙創造以前の、根源的な神秘世界が含まれており(あるいはそれはこの世の一切万象を統合した最高次元の純粋エネルギー界であるといえるのかも知れません。それをわたしはひとり、PLEROMA と名づけているのですが......)、その深い神秘世界を母胎として、このわたしたちが生きている大宇宙の、その誕生から現在までの長い長い宇宙時間に生じた全てのもの、すなわち、光やクオークやバリオンやレプトン、それから核子、原子核、原子、分子、高分子といった物質が階層的に含まれており、その物質的階層の上に生命の発達進化に連なる全てのもの、すなわち、原核細胞から真核細胞へと続く単細胞生物、さらには原始的多細胞生物からはるか現生動植物にまで至る多種多様な系統進化に連なる全ての生物が含まれており、またさらに、われわれホモ サピエンスに特徴的な、旧石器時代から新石器時代、青銅器時代、鉄器時代へと至る火や言葉や道具を伴った文明以前の長い時代の多様な文化的変遷が含まれており、さらにはそれを引き継ぐようにして、それぞれの部族や民族や国家などの集団的な歴史過程が加わり、さらにそれぞれの集団の中の家系的個人的な経験が一人一人に個別的に含まれています。つまり、わたしたち一人一人は、これらの全てを重ね合わせた重層的な統合体として、すなわち、全一的な根源的神秘(PLEROMA)に根ざした宇宙的な物質的階層として、また地球的な生命系として、またホモ サピエンス的な文化を引き継ぐ部族的・民族的・国家的歴史を生きる家系的・個人的な人生の、それぞれに独立した主体として、日々変化し続ける世界に、総合的かつ統合的に、敏感に反応しながら生きています。

 礼奈、このように自己は、世界から切り離された単なる部分的存在ではなく、この世の一切と、物質的かつ生命的かつ文化的、精神的に関わっており、この世においては、直接的にしろ間接的にしろ、自己と関係なく存在しているものなど何一つとしてありません。結局、この世界は自己を包み込んだ一続きの物質と生命と精神に満ちあふれた全一的な統合体に他ならないのです。そして、この一続きの自己=宇宙をわたしは『 このいのち 』として自己自身の内と外に同時的に感受します。      
 礼奈、考えてみれば、あらゆるものは一体だからこそ存在しているのですね。一体でないものは何一つとしてこの世に存在することができません。

―――礼奈、存在を貧しく卑小にする利己的な言葉ではなく、一切万象と自己との全一的な交感から生まれてくる、存在を高め豊かにする本質的な言葉を生み出す精神によって、自己の内なる永遠を限りなく深めていくこと。心の脱皮を無限回繰り返して、至りつくことのできない窮極の本質世界へと限りなく近づいていくこと......  礼奈、永遠の真実界においては、一切は個別的であると同時に全一的です。一切は一切に呼応しており何一つとして切り離すことができません。本質的な持続すなわち永遠が全一的に展じつつ現前し続けています。そして、この瞬間毎に変容し続ける現下の永遠に、価値を超えた無限の価値があり、意味を超えた無限の意味があります。この渾一的な全き世界ではあらゆるものがそのまま全肯定されます。この全一世界には本来エゴイズムと無知による部分性がなく、否定と対立の泥沼で虚しく苦しむことがありません。ここには清らかな愛と知恵による至福が充満しています。ここでは人は永遠と一体となってその展開を楽しみながら、万物万生(ばんぶつばんしょう)とともに本質を支え合い高め合います。万物万生はこの永遠の時間的旅人であり、わたしたち人間もまた永遠の一旅人にすぎないのですが、しかしその本質を生きている限り、そのはかない命も虚しくなることがありません。 

―――礼奈、わたしたちの時代は試されています。このまま人間の欲望追求の道を果てしなく押し進めていき、やがて多くの生命あるものたちを道連れに自滅してしまうか、それとも自然との調和を取り戻して、より高い次元の全一調和的な精神的生命進化の道を自ら切り開いていけるか、その二つの道のどちらを選択するか試されているのです。その結果は、これまでのような物欲中心の、一部の人間にのみ都合よく仕組まれた、自然も人も手段化してしまう、力と金によって操作される社会システムを打ち破り、自然も人も手段化することのない全体が一つに調和した絶対平等の、より完全な世界の創造に向けて自らを高めていけるかどうかにかかっています。そしてそれは人類の精神性の向上によってのみ成し遂げられることなのです。部分的な、その場しのぎの技術的改良だけで自然環境の破壊を食い止め、理想的な世界を地球上につくることなど決してできるものではありません。

 礼奈、わたしは夢見ます、この世に生きる人々が単なる人生の享楽者や利己的な欲望充足者ではなく、この地球世界と一体の本質実存者となることを… あらゆる人々がその持てる能力を、肥大した欲望のさらなる追求に用いるのではなく、この大自然の極めつくすことのできない全一的な真実をより深く理解し、より深く生きるために用いるようになることを… あらゆる人々が、その自己中心的な欲望によって世界を傷つけたり汚したりすることなく、それぞれの本質を支え合い高め合いながら、この世の全一円環的な清浄本質を生きるようになることを… 限りなく精神を高めて、いつしかこの世に真の桃源郷を、真のエデンの園を、真の浄土を実現するようになることを… わたしは夢見ます。  

―――礼奈、この地球上で今や最高の能力と力を持つにいたった人類には、この地球の自然と、あらゆる生物によって緊密に織り成された生命システムを守る責任があるのではないでしょうか。           
 自制と責任を欠いた権力は腐敗して無秩序と破壊をもたらします。そして今、節度と責任を欠いた人類はすさまじい勢いで自然を破壊し続けています。     
 しかし、わたしたち人間は、自らの豊かな未来を保つためにも、一人一人が慎みと責任をもって大自然に対するべきであり、そしてまた、慎みと責任のない個人や企業や国家に向っては慎みと責任を持たせるように仕向けていかねばならないのです。そのことが延いては自分のためにもなり、子孫のためにもなり、大自然の生きとし生けるものたちのためにもなります。大自然が清らかに調和し、その中で生きとし生けるものと人類とがバランスを保ちながら地球全体が豊かに、そして、美しく繁栄すること、それこそがこの世の本来あるべき姿なのではないでしょうか。



  モーリス=ラベル作曲


  『 水の戯れ 』


 丘の上の公園の小さな泉から、冷たく透きとおった水が、小砂を吹き上げながら湧き出してくる。内に光を融かし込み、限りなく自由な動きとともにあふれ出る水は、あちらで渦巻きこちらで逆巻きながら小さな池となってめぐり、やがて池の縁からあふれ出して、そのまま小川の細流となって流れ下っていく。

細く清らかな一筋の流れは、なだらかな傾斜をささやくように流れていたかと思うと、いつしか傾斜のきつくなった石だらけの浅瀬をざわめきながら流れ下り、やがて、小さな淀みに出会って小休止をとる。
ふたたび流れの中に押し出され、ねじれ、絡(から)み合いながら下っていくうちに、流れの半ばをせき止めるように横たわった大きな岩にぶつかり、そのまま勢いよく岩の上にせり上がり、弧を描きながら流れの向きを変える......
流れはまたゆるやかになり、川底の凹凸をそのままなぞるように川面(かわも)を波うたせながらゆったりと流れていく。
やがて、小砂利と小さな岩によって形づくられた段状の浅瀬にさしかかると、また水はしきりとざわめき始め、あちらにはじけこちらにとびはね、陽光にきらめきながらリズミカルに下っていく。
その瀬の先の、やゝ深い淀みとなった緑の水の中から不意に河神(かしん)が顔をのぞかせると、きらめく光や水草と戯れながら流れに身をまかせて流れていく。
流れは右に左に曲がりくねりながら、ふたたび瀬となり淀みとなり、弧を描き渦となって流れ続ける。
 傾斜はさらに増し加わり、しだいに波も大きくなり早瀬となって駆け下り、やがて不意に小さな懸崖(けんがい)にさしかかった流水(りゅうすい)は一気に小さな滝壺に向って落ちていく。

 光あふれる空気の中をキラキラ煌めきながら落下する水の線条......

ふたたび水は渦巻き逆巻きながら流れ下っていき、やがてその流れにもう一つの小さな湧き水が合流し、まもなく公園の谷の、噴水のある大きな池にたどりつく。
 池の中央の噴水の噴き出し口からは、水が宙に勢いよく噴き出し、高く低く弧を描きながら光を乱反射させてキラキラと舞い続ける。             
 ふたたびそこに河神が姿を現わし、光を反射させる水と戯れながら池を気ままに廻っていたかと思うとふと水中にその姿を消してしまった。              


       4


―――礼奈、あなたは臨終の床で、お母さまにコップ一杯の水をお求めになり、その水をゆっくりと飲み干されると、この世での最後の力を得られて大きな息を一つされるとそのまま静かにこの世に別れを告げられたのでした。                     
 わたしたちはこの世に生まれる時は母の水の中から生まれ、この世に別れを告げる時はよく咽喉を一杯の水で潤(うるお)します。

―――礼奈、この世の本質は聖なる全一的調和であり、それはどこまでも浄らかな活(はたら)きなのでした。宇宙創成から人類誕生までの、多様な物質系と生命系によって織り成されてきた自然界においては、全てがその性質や本質によっておのずから展開する過不足のない調和的循環世界なのでした。ところがわたしたち人類は、その本能の殻から抜け出したかと思うと、呆れたことに、貪欲と知的傲慢とによってみずからの分限を忘れて涜聖(とくせい)の道をたどり始め、やがて聖にして母なる大自然をみずからの都合に合わせて汚し、破壊し続けるようになってしまったのでした。人間の本質的無知と傲慢と貪欲とが実体化してさまざまな兵器や機械や化学物質を生み出し、水を汚し、大地を汚し、大気を汚し、そして、自らの生命をも汚し始めたのです。
 そして、礼奈、これまでのわたしたち人類の涜聖の歴史の行きつく果てはただ一つ、自滅的な死の世界に他なりません。これまでの、科学という名の全一的世界観の破壊、ヒューマニズムという名の人間中心主義的驕(おご)り、自由という名の欲望とエゴイズムの放任、進歩という名の際限なき欲望追求の渦巻くわたしたち現代人による涜聖の社会システムを、一日もはやく、知恵と慎みと感謝に基づく聖性の社会システムへと変えていかない限り、人類にそして地球生命系に未来はありません。あるいはいつの日にか、一部の人間が汚れ切った地球を脱出して宇宙空間で、あるいは、他の惑星で生き続けるようになったとしても、母なる地球を死の惑星にするような人類に一体どのような未来があるというのでしょうか。本質的な根を失った生命活動はしょせん空しい徒花(あだばな)に終わるしかないのではないでしょうか。わたしたちは聖なる本質の根を離れては真に存在することはできません。                       
 礼奈、この世はなんと単純で厳しいのでしょう。聖性・浄化の道は生命の道であり、涜聖・汚染の道は死への道です。便利な文化的生活を楽しみながら時代の流れのままに流されていくわたしたちはそれと気づかずに死へと導く涜聖の道をすべり落ちているのです。

―――礼奈、光と同じように、水もまた、無言で生命あるもの全てに限りない恩恵を与え続けます。水というこの世でもっともありふれた存在が、わたしたちの生命にとってもっとも大切なものの一つであり、それを意識し、それに感謝し、決してそれを汚さないということは、その恩恵を受けているものにとっての当然の礼であり、守るべき戒めなのではないでしょうか。            
 ところで、そのような生命にとってなくてはならない水を汚さないという、もっとも基本的な禁忌(タブー)を犯してまで、物質的貪りの道を突っ走るわたしたち現代人とは一体何でしょうか。                  
 礼奈、このような水に代表される大自然との真の結びつきを見失ってしまった現代人は、もはや物事の本来の価値を知ったり、その価値にしたがって世界を秩序づけたりすることのできなくなってしまった生物ではないでしょうか。大自然の正しい意味や価値を正しく認識することができなくなり、内なる本質的方向付けの器官が病んでしまっているのです。             
 礼奈、哀しいかな、現代はこわれものの時代であり、こわれものの人間でいっぱいなのです。

―――礼奈、純粋な光は透明であり、純粋な水もまた透明です。そして宇宙を生み出す無なるPLEROMAも透明であり、人をPLEROMAへと導く真の精神も透明です。                    
 礼奈、人間の精神の階梯(かいてい)を色にたとえると、無知と貪りのためにさまざまな色で濁っていた心が向上し続けて、やがて無垢な純白となり、さらにそれが、透明に限りなく近い天上の青となり、ついには全き透明に至ります。                       
 礼奈、すべての色の中で最高の色は透明すなわち無の色です。また、この世において至ることのできる精神の最高の色は天上の青です。天上の青は、人間的な汚れのない純白から、窮極の完全性そのものである色彩なき色彩すなわち透明へと移る過程において現われる最後の色彩なのです。                  
 礼奈、また、この世的な言葉はおしゃべりにすぎないのですが、一方、本質的な言(ことば)であるロゴスは、この世における最高の言葉であり、存在の本質とPLEROMAの無とをつなぐ窮極の言葉です。PLEROMAそのものは寂静であり、透明な言葉であり、言葉を必要としない完全世界です。そして、本質的な言葉は、いってみれば、そのような言葉なき言葉の世界であるPLEROMAと、雑多な言葉の錯綜するこの現象界との間に咲く聖なる花『 睡蓮 』、すなわち、真の精神が語る言(ロゴス)なのです。 

―――礼奈、私は無心にあなたなる一切万象の聖性に憩(いこ)います。あなたを想えば夜も昼も聖なる時に満たされて、このPLEROMA=宇宙の、無境界・無限底の大海に生死(しょうじ)します。聖なる大自然と聖なる精神、それらの統合であるPLEROMA・永遠・現在に、あなたと共に、無心に憩います。それはこの世のものでありながらもはやこの世のものではありません。

―――礼奈、わたしは透明な光と澄み切った水との清らかな戯れの中にこの世の本質を見ます。そして、その透明な光を精神に、一方、澄み切った水を自然に置き換えてみれば、それはこの世での人間と自然との本質的な関係とも見えてくるのです。人は単なる欲望としてではなく、汚れのない透明な精神として自然に対する時、そこに自ずから全一的調和と活性が生まれてきます。そしてその清らかな精神と自然との調和の中でこそ、人間を支えてくれる生命ある全てのものとの間に、対立と欲望に醜く歪んだ病的狂騒ではなく、本質的な、真に生き生きとした円環的活性が生まれてくるのです。

―――礼奈、今わたしはいたるところそしてあらゆるものの中にあなたご自身を見ます。あなたの本質である精神と存在とが一体となった無境界の真実在そのものを見るのです。境界のない全一的全体はけっきょくは聖なるものであり、このわたしたちを包み込んでいる宇宙の大自然はどこまでも無境界のPLEROMAより生じたものであり、やはりその本質において無境界であり聖なるものであり、そのような本来、境界のない世界やものに形や境界があるように見えるのは、わたしたちの意識の表層に結びついた自己中心性の生み出す幻影に過ぎず、それはどこまでも見かけ上のことにすぎないのです。           
 この、本来、境界のない世界を、意識の表層で境界があるかのように見誤ったまま、真実の無境界の深みに至らなかったことから、この世の一切の悪と災いが生じたのでした。この世の無境界性の忘却が、わたしたち人間の、最も根源的な無知を生む原因なのでした。 

―――礼奈、あなたの青い睡蓮の絵に描かれた水は、あなたが幼い頃から親しまれた公園のお濠の水であり、お父さまが亡くなられた時に流されたあなたの涙であり、あなたをこの世にもたらされたお母さまの胎内の水であり、あなたの生命を養った血液であり、またこの世との別れの水であり、さらには宇宙を生み出した原初の水ヌンであり、宇宙に遍在する水であり、あらゆる元素を内に融かし込んで循環し続ける生命の母なる海であり、この世の罪のいやしと清めの水であり、そしてなによりも、精神の光である青い睡蓮を咲かせて、ついには精神と存在とが一つとなった真実の全き充満、すなわち、聖なるPLEROMAへとわたしたち人間を押し上げてくれる存在の中の存在なのではないでしょうか。

―――礼奈、あなたはPLEROMA、男性的、精神的な光と、女性的、物質的な水とが一つに融け合った、光と水のPLEROMA。あなたは単に精神的光としての聖なる青い睡蓮であるばかりでなく、浄らかな物質的存在としての水でもあったのです。            
 そして、礼奈、あなたのあの青い睡蓮の絵は、光と水のPLEROMAなるあなたご自身の肖像画に他ならなかったのです。                 
 そして、礼奈、あなたのその青い睡蓮の孤独は、純粋にして完全なPLEROMA大の孤独、境界もなく、内も外もなく、淋しさもない、真実の充満した無限大の、孤独ならざる孤独――全き、透明なる無窮の孤独なのでした。


   ドビュッシー作曲 『 海 』


  第一楽章 「海上の夜明けから正午まで」


 空と海と島々の黒い影が、まだ夜明け前の星明りのひっそりとした薄闇の中でまどろんでいる。     
 海は音なくゆったりとたゆたい、そよ風が時おり洋上を吹きすぎていく。

 東の空がほのかに白み始め、地平線上に棚引く雲にもかすかに暁の気配が漂い始める。         
 時は流れ、雲を染める茜色がその色合いを強めながら、海から射し始めた黄金色の光によって次第に上へと押し上げられていく。               
 それにつれて、洋上にきらめく金色の反映もますますその領域を広めていく。      

 やがて、水平線上の光がプラチナ色へと極まって、ついに太陽の先端が顔をのぞかせる。その瞬間、海上にきらめく光の反映が長く帯状に伸びてくる。     
 朝日によって茜色に染められた雲は、その色や形をさまざまに変えながら次第にその輝きの度を増し加えていく。                      
 空の色も、生気のない白色から、次第に鮮やかな青色へと深まっていく。

 さわやかなエオリードがあたりに吹き渡り、洋上に浮かぶ島々も色付き始め、その磯をなぎさが白くふちどっている。

 水平線上の太陽はさらに昇り、大きくなりながら、洋上全体を光でおおいつくしていく。そして、ついにその全容を現わす......


 太陽の上昇とともに、青い空が上天(じょうてん)高く拡がり、輝きを増した雲の影が光の海の中に白く浮かんでいる。   
 高く昇った太陽からあふれる光が、波打つ洋上をキラキラと反射させる。    
 あたりには、風と波と光が織りなす蕩蕩(とうとう)とした情景が拡がる。

 ふと風が止み、不思議な静けさに包まれたべたなぎの洋上に、光と波とが織りなすしなやかでおおどかな幾何学模様がかすかに揺れている。     
 そしていつしか上天に昇りつめた太陽は、広大な空と海を、まばゆい透明な光でおおいつくしてしまう。
 その正午の、広大な光の遍在が、心をかすかにめまいさせる…



―――礼奈、わたしはこの宇宙の、この海の星に生まれたことに感謝します。そして、とこしえの乙女にして清らかなる天の門たるあなたに出会えたことに感謝します。                      
 そして、礼奈、聖なるあなたの名を通して、わたしは祈り続けます――この奇跡の海の星に生まれたわれら人間の、罪深き心の鎖を解き、盲いた心に光を与えたまえ、と。そしてまた、われらの悪を祓い清め、すべての聖なる善きものを得させたまえ、と。        
 礼奈、類なき乙女、われらを罪から解き放って、清らかな生命の道を示したまえ、われらがいつの日にかPLEROMA浄土を心に抱き、全一調和の桃源郷に生きられますように…                    
 あゝ、礼奈、あなたの眼差しが透明になり、その聖なる心が今、浄らかに輝き始める…



モンテヴェルディ『聖母マリアのための夕べの祈り』


 12 讃歌 :「 めでたし、海の星 」
 

1. Ave maris stella
Dei Mater alma.
atque semper Virgo,
felix coeli porta.

2. Sumens illud Ave
Gabrielis ore,
funda nos in pace,
mutans Evae nomen.

3. Solve vincla reis,
profer lumen caecis:
mala nostra pelle,
bona cuncta posce.

4. Monstra te esse matrem:
sumat per te preces,
qui pro nobis natus,
tulit esse tuus.

5. Virgo singularis,
inter omnes mitis,
nos culpis solutos,
mites fac et castos.

6. Vitam praesta puram,
iter para tutum:
ut videntes Jesum,
semper collaetemur.

7. Sit laus Deo patri,
summo Christo decus,
Spiritui Sancto,
tribus honor unus.

Amen.         


   ・・・ホームページから転載・・・



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