No.3632 礼  奈   Ⅲ PLEROMA


  礼              奈
     光と水のPLEROMA

   Ⅲ PLEROMA


 大海はかならずしも八功徳水の重淵にあらず、大海はかならずしも鹹水等の九淵にあらず。衆法は合成(がふじゃう)なるべし、大海かならずしも深水のみにてあらんや。
                                      
  正法眼蔵第十三 『海印三昧』


 至福に生きている者らは それらについては少しも意識しない。  
                                          
  ヘルダーリン    『 ライン川 』



      1


――― 礼奈、わたしはますますあなたへと融け込んでいく。光と水がその透明性において一つと成った万象の母の母なるPLEROMAへと引き寄せられて、わたしはますますあなたへと融け込んでいく。精神のふるさとであり、あらゆる生命あらゆる物質あらゆるエネルギーのふるさとであるPLEROMA――それはありとある一切の完全統合界であり、そこでは精神も生命も物質もエネルギーも存在することを止めて全き無へと完成し、時空は消え、あらゆる差別あらゆる相対性が消え、まったき均衡、まったき真空、まったき完全性、まったき永遠、まったき真実のみが充満する。そのようなPLEROMAへと自己を投げ入れて、わたしはますますあなたへと融け込んでいく。その時わたしにはもはやいかなる恨(うら)みもなく、いかなる愛憎もなく、恐れもなく、自己もなく、言葉すらもなく、唯、永遠の無の生成過程そのものとなって自らを清らかに転じていく。                      
 そして、礼奈、わたしがあなたへと融け込んでいく時、わたしは消え、あなたすらも消え、唯、まったき無なる永遠のみが現前し、自ら展じ続けていく。善も悪もなく、美しさも醜さもなく、この世的な一切の分別を超えた、まったき全一の、空にして無なる、自己ともいえない自己が寂静(しずか)に展じていく…

―――礼奈、あなたに融け込むことは、すなわち、この全一世界に融け込むことにほかならないのでした。もともと一体であった自己と世界が、自我意識の目覚めとともに引き離され対立し始めてしまったのですが、あなたを通して全一的な意識へと目覚めたわたしは、ふたたび全一世界へと帰ることができたのでした。その時、それまで果てしなくわたしをさいなんできたあらゆる悩みや苦しみが消え失せたのでした。いえ、というよりはむしろ、それまで自分と分離していた悩みや苦しみが自分と一つに融け合って、悩みながら悩みでなく苦しみながら苦しみでない世界へと抜け出ているのでした。そこにはいかなる分裂も、いかなる対立も、いかなる作為も、いかなる虚しさもないのでした。あらゆるものを歪めてしまう自我がのり越えられて、全一的なものが全一的なまま清らかに展じていくのでした。              

―――礼奈、あなたのあの深い優しさをたたえた眼差しがどこからきていたのか、ようやくわたしにも分りかけてきました。あなたは透明な永遠の中であなたご自身と調和し世界と調和し、永遠の流転(るてん)そのものと成って生きていらっしゃった。そのあなたの深い意識がそのままあなたの眼差しとなっていたのでした。あの頃、わたしの姿があなたの眼差しの中に映っていた時、わたしはいつもゆえ知れぬ喜びにひたされていたのですが、それは、あなたの眼差しの中の永遠にわたしもそっくり包み込まれていたからこそ湧き出てきた喜びだったのです。わたしは唯あなたといっしょの時を過ごすことができるということだけで無上の歓びを味わっていたのですが、その味わいの源が、あなたの内なる『 永遠 』にあったことを今知ることができて、ふたたびあの頃のあの感覚をあらたに思い起こしながら、その感覚と、今わたしが自己自身のうちに感じることのできる感覚とを重ね合わせて二重の歓びにひたっているのです。

―――礼奈、永遠がすっぽりとわたしを包み込んでいます。ゆったりとたゆたうような永遠の中に身も心もそっくりゆだねて憩っています。わたしは自分自身と調和し、草木と調和し、空や風と調和し、あたりに生起するあらゆる変化と調和します。わたしは貧しく空手(くうしゅ)なのですが、身も心も軽く、この眼の前に展開する世界とすっかり調和して本質的な豊かさの充満する感覚そのものと成っています。わたしの意識は現下(げんか)の永遠に統合されて透きとおるようです。意識は過去にも未来にも揺れ動くことなく、現前の、過去・現在・未来が一つに融け合った永遠にしっかりと照準が合わさって、何の過不足もない状態を保っています。そしてこの純粋な永遠感覚の中で、わたしはおのずから刻々と自己展開し続けます。わたしの永遠がその全一的本質とともに新たな永遠へと瞬時に転じていくのです。わたしはもはや周りの世界に煩わされることもなく、自分自身の意識にも煩わされることなく奥山の清らかな渓流のようにさらさらと流れて行きます。わたしの意識は本質そのものとなり、その本質のおもむくままに流れ続けます。陽が射せば陽と調和し、陽がかげればそのかげりと調和し、あらゆる変化に全一的に反応します。わたしの生命のすべてが本質と一体となってあらゆる変化に対応します。世界をあるがままに受容し、自他の差別のない本質一杯の世界が永遠の中で自ずから転じていきます。              
 しかし、礼奈、わたしがこのような一時的な至福状態から転落する時、心は無境界の永遠の中でゆったりと安らぐことなく、幻想のような日常的な事がらにとらわれて一喜一憂し、右往左往してしまうのです。我執にまみれたちっぽけな自我に引きづられてわたしの心が走り回るのです。そして清らかな世界の清らかな展開を汚します。   
 それは何という生命の浪費でしょうか。真実の生命はいつも清らかに永遠を転じているというのに、永遠から永遠へと清らかに転じ続けているというのに…

―――礼奈、あなたの『 青い睡蓮 』の絵の奥にかくされた全体像がようやく私の前に開けてきました。あなたの絵の中の青い睡蓮の花は、この世のあらゆるものを『 自己 』の内に統合する精神的光の象徴であり、また、その花を咲かせ、あらゆるものを映して拡がる水は、何一つとして分けることのできないこの世の渾然一体的な存在の象徴であり、そして、その画面全体を包み込んだ、それとはすぐに気づくことのできない透明性は、精神と存在との全き統合であり、この世の根源の母胎、母の母なるもの、無にして一切なるPLEROMAの象徴に外ならないのでした。そして、その精神と存在とPLEROMAの完全統合世界へと回帰する時、わたしたちは透明な真実そのものとなって、この世の一切の中に、この世の一切となって充満するのです。その時、わたしたちは一切であると同時に無であり、至福にして空、時間にして永遠、俗にして聖、部分にして全体、言葉にして沈黙、α(アルファ)にしてω(オメガ)、すなわち、真の、自己自身の全一的本質へと回帰するのです。

―――礼奈、あなたはすでに永遠そのものに属し、一方、わたしはこの世の時間に属しつつ、次第にあなたの永遠へと融け込んでいきます。そこでは一切が透明であり、一切が一切と清らかに調和し、一切がおのずから転じ、何ものも我執によって卑小に歪められることなく、本質が本質に共鳴し、永遠が永遠に応答します。全ては持続的瞬間の中で全一的に転じ、変容していきます。       
 そして、心は何ものにも囚われることのない無境界に住して安らぎます。そして、その何ものにも囚われることの無い心で、人の眼と身振りと言葉に現われたあらゆる我執に基づく作為と操作を見通します。人間の歴史の中に積み重ねられた無知と貪りの複雑なもつれを断ち切ります。

―――礼奈、光としての精神は天上的な高さへとあこがれるのに対して、この世的な水はどこまでも深さをめざします。そして、その光と水が融合して、この世に在りながら全きPLEROMAの透明性に回帰します。

―――礼奈、まったき無の上に在る存在、まったき無から転じた存在であるこの宇宙のこの時この場所に生きている自己自身を意識する時、わたしは何ものに対するとも知れない無限の感謝の念にひたされます。また、この無の上の無常なる生命の一瞬一瞬を純粋経験している時、わたしは言葉につくせない至福に満たされます。もはや何ものもこの無上の純粋経験を汚すことができないと思われます。この瞬間的永遠の純粋経験は何ものとも較べることができず、それは絶対的無限世界の神秘的活(はたら)きであり、わたしたちは唯それをそのまま受け入れ、それに帰依する外ありません。そして、それこそまさしく本質によって充たされた至上の実存なのであり、永遠の中に生きていることの無上の歓びでもあるのです。

――― 礼奈、この永遠の全一性の中で、純粋に自己を転じていることが、そのままこの上もない歓びなのですね。この一息一息、この一瞬一瞬の清らかな全的経験がPLEROMAに外ならず、まったき無の風光、まったき無の遊戯、まったき無の舞踏に外ならないのですね。
ところで、礼奈、この無なるPLEROMA,この一切の始まりであると同時に終りでもある永遠清浄のPLEROMAを汚すものはいったい何でしょうか。また、透明な精神の光と透明な存在の水を汚すものはいったい何でしょうか。それはわたしたち人間の無知、わたしたち人間の我執という名の、貪りという名の、高慢という名の無知なのです。この永遠の清らかさの中に在るという無上の恩寵に感謝し満足することを忘れ、利己的な欲望のおもむくままに無限に妄想を積み重ねていく人間の内なる根源的な無知なのです。そして、その無知から生まれる自己中心的な妄念は、自らの身と心を汚し、母なる全一世界を汚し続けます。この全一世界の真っただ中にうごめき続ける人間の利己的な偏見が、この世のあらゆる汚れと災いの源なのです。今ここに存在していることがすでに無上のPLEROMAなのであり、それをそのまま清らかに転じているだけでそのまま至福なのですが、その欠けることのないPLEROMAの至福を、愚かな利己心が我執へと偏らせ、妄想へと歪めて、この清らかな本質世界を汚し続けるのです。

―――礼奈、浄らかな完全性こそが、この世の永遠不変の本質ではなかったでしょうか。そして、その浄らかな完全性の中で、もともと無であったわたしたちは、それぞれの生命を、無の上の無限として(無に対してはあらゆる存在は無限存在です)、無償で、かつまた、無条件で贈られたのでした。一瞬といえども、この世に生命として存在したことはもはやすでに無上の恩恵に他ならないのでした。生命としてこの世界を純粋経験できたことは何ものにもかえがたい恩寵に他ならないのでした。しかし、わたしたち人間はその生命をその浄らかさのまま自己展開していくことに満足せず、自我の妄執にひきずられて限界を知らない欲望追求に走り、自己自身を汚し、この世の一切を汚し続けているのです。
礼奈、この宇宙の一切は、浄らかな完全エネルギーであるPLEROMAのまったき自己展開ではないでしょうか。この宇宙の光も、クオークも、原子も分子も、あらゆる生命も、人間もその精神も、星も銀河も、時間も空間も、この宇宙のありとある一切のものは、PLEROMAのまったき自己展開ではないでしょうか。それ故、この世における唯一つの律(おきて)は、自らがPLEROMAのまったき自己展開そのものと成って浄らかに転じていくことではないでしょうか。全一調和の中で、自己中心と高慢に走ることなく、身心を慎み、何ものをも汚すことなく浄らかに生きることではないでしょうか。この身体の一つの細胞、一滴の血液といえども、もともと自分のものといえるものなど何一つないわたしたちが、無知と我執に正気を失って、自分のものだ権利だと騒ぎ立て、欲の上に欲を重ね、自由の名の下でこの世のありとある恵みを奪い合う狂気の沙汰を一日も早くやめなければなりません…

―――礼奈、わたしはいつもあなたと共にいるのを感じます。あなたはいつもわたしの中にいて、わたしと共に視、わたしと共に聞き、わたしと共に感じ、わたしと共に考えていらっしゃる。いえ、というよりは、あなたがわたしを通して視、聞き、感じ、考えていらっしゃる。もう、わたしはわたしではなくあなたであり、あなたとなったわたしが至福の中で永遠の瞬間を生きているのです。もはや何ものによっても引き離されることのないわたしたちが、永遠と一つとなった浄らかな瞬間の中を透明な風のように流れているのです。

―――礼奈、今やわたしはあなたと共にPLEROMAに優しく包まれているのを感じます。PLEROMAのまったき無の中に、PLEROMAのまったき調和の中に、PLEROMAのまったき安らぎの中に、PLEROMAのまったき愛の中に、PLEROMAのまったき永遠の中に、わたしはすっぽりと包まれているのを感じるのです。そして、気がついてみれば、わたしはこの世に生まれる以前も、この世に別れを告げてから後も、いつもこのPLEROMAのまったき安らぎの中に包まれているのでした。

―――礼奈、わたしはこの世のあらゆる本質に、あらゆる真実に、あらゆる善きものに、あらゆる美しきものに感謝します。そしてまた、この世に人として生を受けることができたことに、あなたという奇跡に出会えたことに、あなたの真実に近づき、その真実へと深まり、その真実に融け込むことができたことに感謝します。 
 礼奈、わたしは今ますますあなたへと融け込みながら、あなたと共にこの世のあらゆる本質がさらに美しく輝くようにと祈ります。
礼奈、まことにこの世のあらゆる本質は全一的な無へと連なる無上の神秘であり、無上の愛、無上の歓び、無上の光、無上の交感、無上の対話、無上の美、無上の聖性、無上の知恵、無上の優しさ、無上の清らかさ、無上の安らぎ、無上の円環、無上の遊戯です。わたしたちが本質に包まれるとき、眼前には、すべてが自分自身であり、と同時に全的いのちである真実の法界(ほっかい)が拡がります。そして、全法界は浄らかなPLEROMAの無に帰しています。すなわちこの世の一切が無色透明な清浄エネルギーの発現であり輝きなのです。そこには唯の一つとして卑小に歪んだものがなく、全ては全一的完全性に充ちあふれています。

―――礼奈、わたしがあなたの光と水のPLEROMAに象徴される無境界の無窮無限へと飛躍し、それと一体となった時に、わたしは自分が境界のない無限そのものでありながらも同時にその無限の中の独自存在でもあり、そして、礼奈、あなたも又、その無限の中の独自存在に外ならず、それ故わたしは初めてあなたと真の対話を、本質的なダイアローグを交わすことができる窮極の自己に目覚めたのでした。それまでのわたしはずっと、唯単にあなたへのモノローグとして存在していたにすぎなかった。わたしは真の自己ではなく囚われの身であり、一つの幻覚の中に、一つの限られた夢の中に閉じ込められて存在していたのでした。わたしにはあなたしか見えず、あなただけの世界に酔い痴れたように没入し、あなたへの一方的なモノローグの中に自分の果てしないナルシズムを味わっていたのでした。わたしはいつまでも閉じ込められた世界の住人であり、そのことに何の疑いも抱かず、むしろそのことに無上の喜びをさえ覚えていたのです。しかし、わたしがあなたの中の無限に抱きとられた瞬間、わたしの閉じられた幻想的世界の殻(から)がはじけて、わたしもまた無限へと開かれ、その無限世界の中で独自に存在している真の自己に出会うことができたのでした。そしてその時同時に、礼奈、あなたをはじめ、わたしも、そのほかあらゆる人々、あらゆる生命あるもの、あらゆる物も、それぞれがそれぞれの次元で、全一的無限の中の独自存在であり、同時に、本質的主体に外ならないことに気づいたのです。

―――礼奈、この現実世界の無限多様性がそっくりそのまま「 PLEROMA=空 」に包摂され、又、この人間の心の獣性から仏心までの無限多様性の一切がそのまま「 空心 」に包摂されます。



  モンテヴェルディ作曲 『 聖母のための夕べの祈り 』


 コンチェルト――二人のセラピムが 
(イザヤ書六.三 / ヨハネの手紙十五、7~8)

Duo Seraphim clamabant alter ad alterum:
sanctus Dominus Deus Sabaoth.
Plena est omnis terra gloria eius.
Tres sunt qui testimonium dant in coelo:
Pater, Verbum et Spiritus Sanctus.
Et hi tres unum sunt.
Sanctus Dominus Deus Sabaoth.
Plena est omnis terra gloria eius.

( 二人のセラピムが互いに呼びかわして言った。
  聖なるかな主、万軍を統べたもう神よ。
  その栄光は全地に満ち満ちている。
  天において証するものが三つある。
  それは父と、御言葉と、聖霊である。
  そして、この三つのものは一致する。
  聖なるかな主、万軍を統べたもう神よ。
  その栄光は全地に満ち満ちている。 )      
          


     2


――― 礼奈、この世の一切は、一切の根源であるPLEROMAの超越的エネルギーの自己展開なのですね。宇宙に拡がる無数の銀河も無数の星も、この地球に生きる無数の生命も、あらゆる人間の精神活動も、その他ありとある一切の現象はPLEROMAの超越的エネルギーの自己展開なのですね。そして一切はそのもとをたどれば一体であり、浄らかであり、完全なのですね。ですから、わたしたちも自分の心を自己中心性のない透明で清らかな状態に保てるなら、そのPLEROMAエネルギーと一体と成って、自ずからPLEROMAの完全性に連なることができるのですね。又、この世の一切がPLEROMAエネルギーの自己展開なのですから、わたしたちが純粋にそのPLEROMAエネルギーと一体である時、わたしたちはその時そのまま、この世のあらゆるものと、その本質において一体と成っているのですね。 礼奈、PLEROMAは存在の眼には完全性の遍満であり、まったき調和であり、まったき「一」であり、まったき真であり善であり美であり、まったき安らぎであり、まったき充実であり、まったき知恵であり愛であり歓びであり精神であり、まったき統合であり、まったき永遠であり超越です…           

 そして、礼奈、わたしはあなたと共に、この完全なPLEROMAと一つと成って、この生きている永遠の刻刻を爽やかに駆け抜けていきたいと希(こいねが)うのです。

―――礼奈、わたしは今、この心の無意識の奥底で透明に光りながら潜んでいた真実の自分自身にあいさつをおくります。長い間眠っていたわたしの奥底の本質の目覚めを迎えて、わたしはほんとうの自分に帰ります。無知と忘却と表面的陶酔の長い眠りから覚めたわたしは、永遠の無と寂静と完全性から成る本源の世界に帰り、その浄らかな渾一の原初的透明性と一体と成ります。しかし、いつまでもその透明性に安住することなく、ふたたびこの多様な色彩の入り乱れる現実世界に戻ってきます。しかし、戻りながらもこれまでのようにいたずらにその混乱に押し流されることなく、本源の世界と現実世界を超越的に統合する『 真精神 』に住して、それら二つの世界に清らかに対応します。わたしは現実的自己でありながら本源的自己であり、本源的自己でありながら現実的自己です。                    
 そして、礼奈、あなたの『 青い睡蓮 』の世界は、やはりこのように現実的であると同時に本源的であり、本源的であると同時に現実的である全き統合世界ではないでしょうか。又、その統合世界を統べているものはあなたの内なる真精神に外ならなかったのではないでしょうか。       
                
 妙なる調べをはるかに超えるまったき静寂(しじま)
 多彩な彩りをはるかに超えるまったき透明    
 真実の言葉をはるかに超えるまったき沈黙    
 無限の形体をはるかに超えるまったき渾一    
 無限の思いをはるかに超えるまったき無心    
 無限の存在をはるかに超えるまったき空無    
 無限の行為をはるかに超えるまったき無為 

 礼奈、これらのものはそれぞれ二つでありながら一つであり、一つでありながら二つです。そして、それらのものは人間の真精神において自覚的に統合され、その本来あるべき姿に帰るのです。存在の大海と原初の渾沌の水がその本質において一つになるのです。

―――礼奈、わたしたちは個人的、社会的生活のあらゆる場面において、自然と調和した全一的な生き方を、わたしたちの知恵の限りをつくして創り出していかねばなりません。そのために人はまず、宇宙138億年と地球46億年の物質的、生物的な歴史的変遷の中に正しく人間を位置付け直して人間の大自然に対する依存性を認識し、人間の分限をわきまえる必要があります。又、同時に、人間も地球も太陽もこの宇宙すらもまだ存在していなかった時の果てのことをも想い、もともと無であったところから今このように存在していることの不思議をも思い、自己自身を空しくしてひとたびは必ず自己の本質に帰らねばならないのです。            
 礼奈、考えてみれば、わたしたちのあらゆる活(はたら)きは、つまるところ浄らかな無へと引き上げられるのではないでしょうか。わたしたちのあらゆる行ない、あらゆる感情、あらゆる感覚、あらゆる思考、あらゆる祈りと希いは、結局わたしたちみんなの故郷(ふるさと)である浄らかな無すなわちPLEROMAへと回帰していくのではないでしょうか。          
 礼奈、わたしたち在りと在るもの、生きとし生けるものは、その始まりであるとともにその終りでもある浄らかな無へと精神を同調させて浄らかな無そのものとなって生きるとき、最上の実存を体験するのではないでしょうか。小さな我執の殻から解き放たれて無心となった実存は、『 PLEROMA=宇宙=自己 』へと融合して全一的な純粋体験者となるのではないでしょうか。  
 そして、礼奈、あなたの心は超越的無の完全性――PLEROMA――に住していらっしゃった。あなたの心は純粋で、無心の知恵と慈(いつく)しみに満ちあふれ、この世に在りながらすでにこの世をはるかに超えたまったき無の高みに生きていらっしゃった。

―――礼奈、本来この上ない価値を持つ自然に対して、わたしたち人間は自己中心的な都合に合わせて価値付けし、値段をつけます。さらには人間の労働も、挙句の果てには心さえもが商品化され手段化されて、今や手当たり次第に、無上の価値を持つ本質そのものが安っぽく濫用され汚されてその挙句の果てに廃棄物とされて捨てられてしまいます。そんな中で生きる人間たちも、いつしか力と金に操作され飼いならされて自分本来の無上の価値を見失い、価値のない非本質的な儲け仕事に生命をすりへらし、つまらない気散じや享楽に大切な時間を空費して生涯を終えるのです。至上の本質存在が空しくつまらない存在へと堕落してしまっているのです。            
 礼奈、ほんとうに人はどれほど無雑作に、過ぎてしまえば二度と帰らぬこの一回限りの生命の永遠を過ごしていることでしょうか。祈りのない、真実のない、空しいときを過ごしていることでしょうか。

―――礼奈、あらゆる時と処において全一的調和が実現されねばなりません。人間の聖なる生のエネルギーをそのためにこそ使わなければならないのです。本質的な価値を奪われてしまった大自然と人間社会にふたたび本質を回復し、又、われわれ一人一人が自らの本質を回復して清らかな永遠に生きなければならないのです。

―――礼奈、真実の眼によって視る時、この宇宙で生起するあらゆる現象は神秘に他なりません。現代科学はすでにこの宇宙の誕生や歴史的変遷や法則について多くの発見を重ねてきました。しかし、それにもかかわらずこの宇宙はどこまでも神秘的であり、人間の言葉や数式によって表すことのできるような平板なものではありません。極小の素粒子から極大の宇宙まで、一切は無窮の神秘そのものであり、人間の浅い思考などの金輪際届かない聖性の現われであり、それはどこまでも畏怖と畏敬と感謝の念とによって拝受されねばならない絶対の宝珠(ほうじゅ)なのです。なぜ絶対の宝珠かといえば、それなくしてはわたしたちの生命そのものが在り得ないからです。つまるところ、わたしたちの存在に関わる一切がそのままわたしたちにとって絶対的な宝珠に他ならないのです。              
 礼奈、私は感じます、この永遠の生命の窮めることのできない神秘を感じます。この宇宙の窮めることのできない神秘を、この銀河系の、この太陽系の、この地球の窮め尽くすことのできない神秘を、この水の惑星の40億年の生命の歴史の神秘を感じます。この自分の生命の、このようにあるそのあるがままの神秘を、この全一的な神秘を、その神秘中の神秘を感じます。そしてその神秘に感謝の祈りを捧げます。このように存在していることがすでに無上にすばらしいのです。そしてまた、この生命の本来の全一的真実の流れのままに清らかに生きていくことがこの上もなくうれしいのです。     
 礼奈、このようにして一切が精神によって真に統合されている時、わたしは深い神秘に包まれた至福に浸されます。

―――礼奈、わたしはあなたに永遠の感謝を捧げます。そして、あなたの『 青い睡蓮 』に永遠の感謝を捧げます。あなたとの出会いがなければわたしは今の認識に導かれることはなく、あなたの『 青い睡蓮 』がなければ今のわたしに到ることができなかったのですから。あなたとの出会いが縁となって、あなたと、あなたの本質の表現である睡蓮の絵をめぐる30年に及ぶ長いモノローグの果てに、あなたの真実に迫ることができたのでした。あなたはわたしの中でいつまでも十九才の姿のままで、わたしの心を照らし、導き、目的の地を指し示す灯火と成り続けられたのでした。  

――― 礼奈、自分自身に対する誤った認識から、また自分と世界との関係に対する誤った認識から、この世の諸々の問題が生まれてきたのですね。そして、人類的な自己認識、すなわち人類と大自然との本質的関係の見損ないから現代の諸々の悪弊が生じてしまったのですね。      
 しかし、この世のあらゆるものはもともと原初の浄らかな真空=PLEROMAから立ち現われたものであり、それ故この世の一切がほかの一切に関係しており、又、大自然と人類と自己とは一体であり、全ては全一的連関と調和の中で生成し、変容し続けています。また、この自己=世界の一切を全一的に統合している自己の内なる真精神がこの命の窮極の主体であり、この主体もまたこの永遠の今とともに変容し続けており、この無なるPLEROMAの上に立ち現われているこの全一的かつ主体的な生命は至高時に住しており、至高時に住していることはそれだけで十全であり、無限の感謝の対象であり、この上さらに利己的欲望に迷うことは永遠の罪であり、清らかな全一性をそのまま自己展開していくことが本来の在り方であり、永遠に叶う本質的な生き方なのですね。 まことに、礼奈、この世界の本質の正しい認識に基づいた正しい行動こそが真の自己の実現に外ならず、この宇宙の本源であるPLEROMAからこの自己に連なる正しいいのちの流れに沿って生きることが真実の生き方であり、無から生じたこの無上の生時に限りない感謝を捧げつつ、この無の上の永遠の今が生の至高時に外ならないことの気づきの中で、全てが全てに等しく清らかに連関して転じていくことが永遠に叶う無上の幸福であることを、真精神において統合的に認識し、主体的に行動していくことが大切なのですね。  
 そして、礼奈、私が変わればわたしの関係している世界が変わります。一人が変わればその関係世界が変わるのです。ところでこの世界は一如であり、一切が一切に連関しています。それ故、わたしが変われば一切が変わり、一人が変わればやはりこの世の一切が変わっていきます。この永遠の今とともに一切が変容していきます。

―――礼奈、この世のあらゆるものは、この永遠の今とともに変容しています。この世のあらゆるものは永遠の今とともに創造的に転じています。PLEROMAの超越的エネルギーも、宇宙も、銀河も、太陽も、地球も、生き物たちも、もちろん人間も、その精神も、そのほかあらゆるものが全一的連関の中で、またそれぞれがその独自の本性に従って刻々と転じています。    
 礼奈、この世の全てのものは、この永遠の今へと刻々と全一統合的に立ち現われ続けています。あらゆるものは永遠の今から永遠の今へと生成し変化し続けています。一切万象は永遠から永遠へと全一的に変容し続けています。この後戻りすることのない生成の永遠の流れの中に一切万有は自らの本質のままに転じています。                       

―――礼奈、今ここに現前しているこのいのちの全的顕現そのものと成り切ること、それが、礼奈、あなたに融け込むことに外ならなかったのです。             
 礼奈、これこそがこの世のPLEROMA,永遠一如の真実世界の真の現前なのですね。

―――礼奈、あなたは精神としての光―睡蓮―と、自然としての水とを一体のものとして描かれることによって、結局は有機的に統合されたこの世の全一的な真実のいのちそのものを描かれたのでした。そして、さらに、この世的なものを超えて、画面全体を包み込む透明感によって、まったき無の本源へと、この世のいのちをお帰しになられたのでした。

―――礼奈、あなたには「 私 」という思いがまったく無いのでした。それゆえ、私有という思いも、権利という思いも、生死という思いも、美醜という思いも、善悪という思いすらも無いのでした。あなたは浄らかな心で、永遠現在の現前世界を、ただ純粋に経験なさっているだけなのでした。



 モンテヴェルディ『聖母マリアのための夕べの祈り』 

 「聖マリアによるソナタ」  
                        
 Sancta Maria, ora pro nobis.         
 (聖マリアよ、われらのために祈りたまえ。)



―――礼奈、あなたは人生の花の盛りに、身も心も清らかなまま、永遠PLEROMAへとお帰りになられたのでした。
  礼奈、あなたはどこまでも清らかな愛でした。そして、礼奈、あなたは祈りに外ならなかった。宇宙の祈り、いえ、PLEROMAの祈りに外ならなかった。清らかな完全性、原初の超越的な完全性の祈りに外ならなかった。一切の始原の完全性への永遠回帰の祈りに外ならなかった。いえ、より正確には、始まりのない過去から終りのない未来へと連なるこの永遠の全一的瞬間の完全性成就の祈りに外ならなかったのでした。

―――礼奈、わたしは夢見ます。いつの日にか人が真の精神性に目覚めて、もはや欲望のためにではなく本質のために生きる時が来るようになることを。人が大自然の本質と一体となって生き始めるようになり、ふたたび山々がその豊かな緑を回復することを、地球を経巡る水がふたたびその清らかさを回復することを、大地もそれを包む大気もその汚れを清められることを、そして、本来の清らかさを取り戻した大自然とともに、心を清められた人々が穏やかで美しい調和の中で生活するようになることを。

―――礼奈、ほんとうにこの永遠の一瞬が全てなのですね。このPLEROMAなる全一的瞬間が全てなのですね。この世的な相対的なことの一切を超えた、この絶対的瞬間が全てなのですね。この清浄空、すなわちこの清らかな完全性が全てなのですね。

―――礼奈、あなたの絵は完全調和の地上的PLEROMA,清浄なる無の充溢、物質的自然と生命的自然と人間的精神とのまったき統合、そしてその全一的調和は祈りとなってこの精神性低き時代に滲透しなければならないのです。                  
 そして、礼奈、わたしはあなたのその聖なる祈りと一つとなって、この命のつきるまで働き続けたいと希うのです。

―――礼奈、あなたの永遠の希いは、この世に生きる人々がそれぞれの精神の花を咲かせ、生きとし生けるものたちとのまったき調和の中に生きることなのでした。いかなる不公平も搾取もない桃源郷、誰もどんな生き物もどんな物も搾取されたり浪費されたりすることなく、清らかに調和している世界、何ものもその全一的価値を引き下げられることなく、あらゆるものが本質的な平等と調和の中で生き生きと活動している世界、全ての人が欲望の長い夢からさめて全一的な意識を養い、全ての人や生き物や自然を自分自身のように感じながら、慈しみと知恵に満ちて生きる世界、そんな世界に生きることなのでした。                  
 礼奈、それでは現実世界に全一調和世界を実現するためにわたしたちはどのように働きかけていけばいいのでしょうか。本質豊かな無限の多様性そのままに、清らかな自然そのままに、精神性豊かな世界を実現するためにわたしたちはどうすればいいのでしょうか。エゴイズムと物質主義と享楽主義と競争主義と拝金主義の渦巻く現代世界にいったいどう働きかければいいのでしょうか。祈りを込め思いを込めて一人一人の人の心に呼びかけることによって、あらゆる時と場面において、さまざまな本質的方法と手段を用いて、一人一人の精神を全一的本質へと開花させていくことによってそれは為されなければなりません。                
 そして、やがて人の心が変わり、社会のシステムが変わり、教育が変わり、生活環境が変わり、人と人との関係が変わり、人と自然との関係が変わり、それらの全てが相互に影響し合いながら、本質的で清らかな循環をもたらす因子となって関係し合う永遠の桃源郷へと近づいていく。そして、それはやがて、無限の祈りと、無限の学びと、無限の活動の果てに、永遠の真っただ中に現前する......

―――礼奈、あなたへの長い長い夢から今ようやく醒め、長い夢路の果ての平常の意識に戻って思い返してみれば、礼奈、あなたは睡蓮の花を唯無心に描いていらっしゃるばかりなのでした。それをわたしはいたずらに聖性の幻影で包み込んでみたり、精神の厚い膜でおおってみたりしたのでした。しかし、あなたは、眼前に唯無心に咲いている睡蓮の花を、やはり唯無心に描いていらっしゃっただけなのでした。             
 礼奈、あなたと睡蓮は、どこまでもどこまでも浄らかな無の風光なのでした。             
 そして、礼奈、わたしが長い夢から醒(さ)めて、この平明な真実世界においてあなたと完全に一つと成る時、あなたはもはや存在せず、わたしもまた存在せず、唯無心のPLEROMAのみが、永遠の寂けさの中で輝き始めるのです…



モンテヴェルディ『聖母マリアのための夕べの祈り』

 「マニフィカト」 
 12. 初めにあったように

Sicut erat in principio
et nunc, et semper,
et in saecula seaculorum.
Amen.

( 初めにあったように、          
  今もいつも、              
  世々とこしえまで。           
  アーメン。 )              
          
     

   ・・・ホームページから転載・・・



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