No.3667 LOTUS 200( ロータス トゥーハンドレッド ) 2 



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「しかし、それにしてもやはりまだ信じ切れません。たとえば、私有権や相続権の問題、それから、なんといっても戦争を頂点とした暴力の問題、それに言葉の壁のような問題はどのように解決できたのでしょうか。」
「小山さん、言葉の問題はこのテレポーターが解決してくれたのですよ。このテレポーターはまさに万能のコミュニケーション ツールでして、このテレポーターを使えば世界中の言語のさまざまな方言ですら通訳することができるんです。このテレポーターは地上局と衛星局とを結んで瞬時にあらゆる言語を通訳してしまいますから、これさえあればいつでもどこでも誰とでもコミュニケーションが可能になるんです。この通訳機能のおかげで、世界中のニュースをそれぞれの言語で直接知ることもできます。だから今では何年間も学び続けなければならない根気のいる語学学習はまったく必要なくなってしまいました。そのほか、このテレポーターにはさまざまな機能があります。これなくして今のわたしたちの生活が成り立たないくらいなんです。」
「テレポーターがあればエアーカーにも乗れますしね。」
「ええ、その通りです。」
「しかし、私有財産権や相続権の問題はどうでしょうか。これらの権利を放棄させることは容易なことではなかったと思われるのですが…」
「まったく、おっしゃるとおりです。私有権と相続権がこの世界から完全に無くなったのはつい20年ほど前のことなんですよ。それほどこの自己中心的権利意識は人間の心に根深く巣食っていたのです。それでも、長年にわたる根気強い、理性的かつ精神的な説得によって徐々にそれは成し遂げられました。それは地域によって、それぞれの自然的精神的風土の違いによって、非常に早い段階から実現した地区もあれば、それより百年、百五十年と遅れて実現した地区もあるんです。しかし、結局は人類全体が利己的な私有権や相続権よりも全一調和的な本質権のほうが自分と自分の家族、それからさらに子々孫々の代にいたるまでをより幸せにしてくれるということが納得できたので手放すことができたのです。わたしたちの先駆者は、決して人々に強制しませんでした。どこまでも説得と十分な本人の納得の上で変えていったのです。結局、強制的に上から変えてみても、人が心の底から納得しているのでなければ、何事も本当には変えることができないのですからね。一時的に、そして表面的には変わったように見えても、心の底では不満がくすぶり続けていて、いつの日にかその不満が爆発するのです。そしてふたたび社会に波風が立ち、混乱が生じます。結局のところ、上から強制するあらゆる形の暴力によっては、本当には何一つ変えられないのです。そのことを人々に繰り返し説明し、納得してもらうことによって、戦争を頂点としたあらゆる暴力の問題も解決できたのだと思います。もちろん、国家が解体したことによってその問題は加速度的に改善され、勢いづいたのも事実ですが。何しろ国家の持つ軍隊こそが人間の暴力主義の究極的な形態であり、その象徴でもありましたからね。そして、国家がなくなり国家間の戦争も無くなったのですから、軍需産業も死の商人たちもいなくなってしまいました。あらゆる種類の核兵器もその他の武器も廃棄されました。そして、今は『百人委員会』の下に遠隔操縦によるレーザー兵器だけが万一に備えて確保されているだけなのです。もちろん今は、戦争による難民問題もありませんし、戦争孤児もいなければ共有財産の破壊もありません。そして何よりも社会のあらゆる場面で暴力沙汰が劇的に減ったのです。」
「ふーん、そうですか。私有権も相続権も、さらには戦争や暴力沙汰までも無くなってしまったんですか。まったくわたしの時代からは信じられないような変化ですね。 …うーん、しかしそれでは、中小企業から大企業、世界企業などの私企業はどうなったのでしょうか。何しろ経済至上主義時代の私企業の問題は超難問としてユートピア建設の前に大きく立ちはだかった筈ですからね。」
「ええ、小山さんのおっしゃるとおりですわ。それもやはり一筋縄ではいきませんでした。でも、結局は、NPOやNGO、それから同じような草の根の、下からのさまざまなボランテア活動によって、しだいに私企業が地域社会を中心とした公的な生産機構へと変化していきました。そして、それまで私企業においてさまざまな形で働く人たちを苦しめてきた労働環境問題や労働の本質的な意味や価値といったような根本的な問題を解消し、ほんとうに生産する意味と価値のあるものだけをもっとも本質的な方法で生産する体制ができ上がってきたのです。」
「へえー、そうなんですか。」
「ところで、小山さん。わたしたちは歴史を眺めるとき、ルネッサンス期から20世紀までを知性の時代と捉(とら)えます。この時期には華々しく人類の知性の花が咲き誇りましたからね。そして近代的な科学や技術の大きな進歩が見られました。そして、近代化した社会においてはさまざまな利便性を享受することができるようになりました。しかし、その一方では、個人間、地域間、国家間において貧富の格差がはなはだしくなり、人類と自然界を破滅に導くような核兵器が開発され、それが一見もっともらしい理由付けをされて実際に使用され何十万人もの人命が一瞬にして奪われ、その後も多くの人が何十年にもわたってその後遺症に悩まされ続けました。それからまた、乱開発や化学物質などによる汚染などで自然がほとんど回復不能な状態にまで破壊され、多くの野生動物たちが絶滅していきました。そして、21世紀に至って、わたしたちはようやく人類の知性の持つ限界、すなわち宇宙万象の全一的な統合性や一体性といった本質を直感する能力に欠けた、人間中心的、自己中心的な偏(かたよ)った性向を本当に深く自覚できるようになり、そしてそのような知性に内在する自己破滅的な機能的限界から抜け出すために、より本質的な意識機能である精神の大切さと必要性に目覚め、さらにはその精神の全人類的向上に力を注ぐようになったのです。その結果、西暦21世紀あるいはわたしたちの暦法で言えばロータス1世紀は人類にとって真に精神的な目覚めとその向上の世紀になりました。この精神的向上がなければ、今の社会は実現していなかったと思います。その意味で、この百年は人類史上特筆すべき時代なのです。そのことはわたしたちの今の社会を理解する上で忘れることのできないもっとも大切なことなのです。」
「ああ、そういうことが21世紀に起こっていたのですか。それなら、わたしにも納得できそうな気がします。それは本当に素晴らしいことです。人類もまだ捨てたもんじゃありませんね…」

 わたしは正直なところ、21世紀に起きていた夢のような社会的変化に少々興奮気味であった。

「ところで、もう一つ、老後の年金問題はどうなっているのでしょうか。もう、破綻(はたん)してしまったのでしょうか。」
「おや、小山さん、わたしたちの社会には年金制度というものはありません、その必要がまったくないのです。衣食住そのほかあらゆる社会的なサービスが無料で受けられるのですから… ただ、外食を楽しんだり新しい洋服を作ったり、そのほか趣味などで楽器などを購入するような場合にだけロータス貨が必要になります。そのようなささやかな自分の好みの自由行使のために、月々20,000ロータス支給されるのです。それが、昔の時代で言えば年金と呼べるものなのかもしれませんね。いずれにしましても、今は誰一人として衣食住に困るような人はいません。一人でもそのような人がいれば、それはその地域全体の恥ですし、ひいては『三十人委員会』の最大の不名誉ともなるのです。そのときには委員会の全委員は職務怠慢の廉(かど)で即刻解任させられます。そして、その後長く不名誉な汚名をかぶり続けなければならないのです。これまでに一度だけこの地区でもそのようなことがありましたが、そのとき解任された委員の多くはふたたび禅堂にこもって長年にわたり心の修行のし直しをしました。一人の本質権の侵害に対する地域社会の責任はそれほどにも重いのです。」
「まったくそれは徹底した制度ですね。それなら住民は将来の生活に対する心配もなく、自分の本質活動に専念できるというわけなのですね。」
「ええ、その通りですわ。日々の生活や将来の人生に不安があると人は誰でもその不安に心を奪われて本当の自分を十分に生きることができないものですから…」
「本当におっしゃるとおりですね。ところで、住宅建築や輸送、通信、家庭の器具備品、そのほか衣食住および娯楽やスポーツや福祉などに必要な品物はどのようにして作っていらっしゃるんですか。私企業というものがもうどこにもないのであれば…」
「はい、いろいろな製品は、その製品の性質や製造の難易度などによってそれぞれ適切な地区レベルごとに振り分けて生産管理しています。各地区レベルで作れるものはそれぞれその地区ごとに生産し、地区レベルでは作れないものは、それより上位のレベル、すなわち統合区や地方や大統合地区レベルで生産します。たとえば、大統合地区では、垂直離着陸式ジェット機や通信衛星やスペースシャトルなどが、また、地方レベルでは、エアーカーや、さまざまな精密機器、たとえばテレポーターや自然環境汚染度の検査用機器などが作られます。それから統合区ではさまざまな家庭用の器具備品が主に製造されています。」
「なるほど、そのようなシステムになっているのですか。」
「はい、そして今ではこのシステムで社会的需要のほとんどが順調に満たされています。」
「そんなにも多くのことが順調に進んでいるとなると、今度はあまりに順調すぎて皆さんの生活や人生全般が単調にそしてまた退屈なものになるんじゃないかと心配になってくるのですが、これは心配のし過ぎでしょうか?」
「まったく、小山さん、おっしゃるとおりそれはまさに心配のし過ぎというものですよ。生活の基礎的な部分の心配が取り除かれると、精神的に目覚めた人間はまた新たな面に意識を向けるようになるものなんです。たとえば、わたしたちが不安のない生活の中で今、日々考えることといえば、どうすればより精神的に豊かに充実して過ごせるかということなのです。どうすればより本質的に価値のある時間が過ごせるか、どうすれば後に悔いの残らない生活ができるか、といったようなことを考えたり工夫したりするようになるのです。物質的な不安が取り除かれれば、後は精神的な充実と豊かさを求める生活が待っているというわけなのです。ですから、わたしたちが退屈するということはまったくといっていいほど無いのです。退屈と感じるのは心ですから、精神的に充実している人には退屈と考える暇がそもそも無いのです。」
「そうですか、そういうものでしょうか。」
「はい、精神的な向上には限りというものが無いですし、精神的充実の工夫にも限界というものが無いのです。」
「山本さん、具体的に精神的な充実と豊かさというのはどういうものなのでしょうか。わたしにはどうも今ひとつよく分からないのですが。」
「そうですね、精神的な充実とか豊かさというのは、言ってみれば精神的な悦びに満ち溢あふれた状態といってもいいと思います。たとえば、人の喜んでいる姿を見て自分の心が嬉しくなったり、犬や猫や鳥や虫や草花などが満足している様子や生き生きしている様子を見て自分の心が嬉しくなったり、もちろん自分の子供や親兄弟が幸せにしている姿を見て自分の心が嬉しくなることも当然その中に含まれます。つまり、自分や自分の家族だけでなく、あらゆる人々、あらゆる生き物、あらゆる物事の中に本質的な、全一調和状態を見ることにこの上も無い幸せを感じることなのだ、といえると思うのです。精神的な悦びはこの世のあらゆる物事の本質的な状態の中にいつでも見出すことができるものなのです。」
「はあ、そういうものでしょうか。美沙さんもそう思われますか?」
「ええ、わたくしも父の考えに賛成です。精神的な充実や豊かさは精神的な悦びの中にあると思います。そして、その精神的な悦びはこの世のあらゆる物事の本質状態、つまり生き生きとした全一的調和状態の中に満ち溢れていると思います。ですから、この地球世界のあらゆる場所にそのような本質状態を創り出し、それをいつまでも維持していく仕事の中にもやはり精神的な充実と悦びがあると思うんです。」
「ああ、なるほど、美沙さんは今それで地区改善学を学んでいらっしゃるんですね。」
「ええ、その通りなんです。」
「そうですか、それはやはり素晴らしいことなんですね。とっても素敵すてきなことなんですね。わたしも美沙さんのためにそのことが本当に嬉しいです。」
「ありがとう、小山さん、そのように考えていただけてわたくしもほんとに嬉しいですわ。」
「小山さん、わたしだって小山さんが私たちのことを分かってくれてとっても嬉しいのよ。」
「理沙ちゃん、あははは、どうもありがとう。理沙ちゃんにそう言われるとなんだか本当によかったと思われてくるよ。ほんとにありがとう、理沙ちゃん。」
「そんなあ。お礼なんかいいのよ、本当のこと言っただけなんだから。」
「いや、理沙ちゃんには本当に負けるよ。」
「うふふ。」
「小山さん、少しはわたしたちのことが分かっていただけましたでしょうか」
「はい、おかげさまで朧気(おぼろげ)ながら今の時代の様子が見え始めてきたような気がします。そして、わたしの生きている時代からは大きく精神的な方向に変化してきたということが確認できて大変よかったです。殊(こと)に、軍事力を中心とした力の政治が影を潜(ひそ)め、また、利己主義と無知による欲望の自由ではなく、全一調和と本質的知恵に基づく真の自由が世界を覆(おお)っているということが分かって嬉しかったです。利潤や私益のためではなく、精神的豊かさや生きとし生けるものたちの真の悦びのために生きていらっしゃることに感心しました。わたしたちの時代は一人一人がばらばらに、お互いがお互いのライバルや敵ですらあるような意識の中で生きているのに対して、皆さんは一人一人が本当の家族のような、さらには地球上の生きとし生けるものたちが一つの大きな命の仲間であるような、そんな一体的、統合的な本質的知恵を生きていらっしゃる。それはあの宮沢賢治や、そのほか世界中の多くの理想主義者たちが思い描いたようなユートピアに近い世界とすら言えるでしょう。まったく素晴らしいことです。今までわたしには、人間の社会というものは変わらないもの、変われないものだというような思い込みのようなものがあって、ユートピアの実現など夢のまた夢に過ぎず不可能なことなのだと諦(あきら)めていたのですが、今ここに現実としてあるのだと知ることができて本当に嬉しい驚きでいっぱいなのです。そして明日、美沙さんと理沙ちゃんにこの地区を案内してもらってその様子を具体的に目にすることができるかと思うと楽しみでしょうがありません。また素晴らしい体験ができるに違いないと、もう今から期待で胸が膨(ふく)らみます。」


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「ああ、そうだ、山本さん、テレポーターの事もっと教えていただけませんか。エアーカーに信号を送ったり、通訳させたりの他にどんなことができるのでしょうか。」
「そうですね、地区のさまざまな委員を選んだりするときはテレポーターを通して投票できますし、また、地区のさまざまな改善案などもテレポーターで提出できます。もちろん世界中の人とテレビ電話で話ができますし、世界中のニュースを見たり、スポーツや映画や演劇などの観戦や鑑賞、それにさまざまな人々の自発的な自己表現のパフォーマンスを見ることができますし、それから毎月の公務の報酬を振り込んでもらえますし、あらゆる支払いもできます。また、先ほども言いましたように週二回の食料品の注文や、必要な場合には外食の予約もできますし、そのほかさまざまな乗り物の予約や宿泊施設や娯楽施設やスポーツ施設の予約などもできます。また、世界中のあらゆるジャンルの作品を原語でも翻訳でも読むことができますし、ああ、それから先ほど言い忘れましたが、テレポーターは通訳した言葉を画面に字幕表示させることもできますので、耳の不自由な人も何の支障も無くコミュニケーションできるんです。それから、目の不自由な人には点字で表示させることのできる機種も用意されています。そのほかさまざまな調べものやコミュニケーションに関するあらゆることに利用できます。また、近隣の人や地区の委員会からの緊急時の連絡などにも利用されているんですよ。」
「ああ、すごいですね。もうテレポーター一つでほとんどのコミュニケーションが図れるようになっているんですね。テクノロジーの素晴らしい進歩が今もなお続いているんですね。」
「はい、本質的な事柄、つまり本当に必要な、人と人との間の連絡機能をできるだけ備えられるように今も研究され続けています。ああ、そうだ、ひとつここでテレポーターを使って、そうですね、わたしの家内のピアノ演奏でもそこのモニターでご覧いただきましょうか。」

 山本さんは、そう言うと、ご自分のテレポーターを操作して目の前の大きなモニターにスイッチをいれ、奥様がピアノを演奏される姿を画面に呼び出された。

「これが、今から十年前の家内です。この演奏は当時わたしが録画したものなんですが、小さい頃の美沙も理沙もそのとき一緒に手伝ってくれました。」

 モニターでは正装姿のセレステさんがコンサート・ホールのグランドピアノを前に演奏を始められた。リビングルームの音響効果は驚くほど素晴らしいものだった。あたかも本当のコンサート・ホールで聞いているような臨場感あふれるピアノの音が豊かに室内にこだました。

 そのときの演目はショパンとメシアンの小品と、バッハの『平均率クラヴィーア曲集 第一巻』の全曲だった。そして最後にもう一曲、ご自分が作曲されたという愛らしい小品一曲が演奏された。合わせて一時間二十分近い演奏だった。

 モニターの中のセレステさんは、どちらかといえば小柄な、品のいい顔立ちの、知的な中にも情感豊かな雰囲気を漂わせた人だった。そして、山本さんがそんなセレステさんに一目惚れしたのも無理はないと思った。そしてわたしのその感想を率直に山本さんに伝えた。山本さんは少し照れるようにしながらも満更でもなさそうな様子であった。

 わたしたちはそのセレステさんの心のこもった素晴らしい演奏に耳傾けながら、さらに話しを続けた。

「ところで、山本さん、皆さんはとても穏やかな、満ち足りた生活を楽しんでいらっしゃるようなんですが、皆さんでも時には激しい感情に揺り動かされるようなことがあるんでしょうか。こんなユートピアみたいなところに住んでいらっしゃる人はどなたも怒りに駆かられるようなことなど無いんでしょうか。」
「いえ、小山さん、わたしたちにも激しく怒り、抵抗するようなこともあるのですよ。というよりも、その覚悟ができているといった方がいいでしょうか。つまり、わたしたちにもこれだけは譲ることができないといった最後の一線というものがあるんです。それが何かといえば、大自然の本質状態や社会の本質状態あるいは自分自身の本質そのものが侵害されるときなんです。その時はわたしたちも命懸けで闘います。わたしたちにとって大自然の本質や社会の本質、また自分自身の本質権は自分の命よりも大切なものなのです。自分の本質が生きられないのであれば死んだも同然だという考えからです。本質こそが命の命なのであって、つまり本質があればこそわたしたち一人一人の命も在るのであって、その命の源である本質が汚され、破壊され侵害されるような状況を黙って見過すわけにはいかないのです。母親が最愛のわが子を命懸けで守るように、わたしたちも本質を守るためにはこの命も惜しみません。わたしたちは小さい頃から家庭において、学校において、また社会において、この本質に殉ずる覚悟だけは例外なく植えつけられるのです。ほかに掛け替えの無いこのわたしたちの大切な命よりもさらにもっと大切なものがこの世にはあり、それこそはこの宇宙万象の本質であり、命を懸けてその本質を守ることはわたしたち自身およびわたしたちの子供たちの未来を守ることにも等しいと確信しているのです。この信念が住人一人一人の心の中に刻み込まれている限り、わたしたちの社会が精神的に堕落することはありえないと考えます。」
「そんな激しい精神的な信念と覚悟があるんですか。それは何よりも堅固な社会的砦(とりで)になりますね。そんな人々の住むところには利己的ないかなる悪意も策略も入り込む余地は無いでしょうからね。」
「はい、その構成員である住民に、いざとなれば本質のためにその命を捨てる事のできる精神的な覚悟のある社会はもっとも安定です。結局のところ、人間世界のあらゆることはわたしたちの精神次第でどうにでも変わるものなのです。なんといっても精神が人間世界の中心なんですから。だからこそ、わたしたちは精神的な自己啓発を社会生活の最も中心に据えてもいるのです。」
「お話を伺(うかが)っていて、わたしの生きている時代を振り返りますと、わたしたちの多くは、自分のエゴイズムや面子(めんつ)や欲望追求のためには命懸けになれても、自然や社会全体や自分の本質のためには命を懸けることはほとんどありません。また、多くの人は、たとえそれが本質的に大切なことであるとわかっていても、ただ自分が生き長らえるためだけに多くの面倒を避けて通ります。恐怖心からくる臆病と自己保身のための無責任な事なかれ主義に徹(てっ)しているのです。そこには本当に人間らしい精神的に高貴なものはまったく感じられません。そしてその結果として社会全体が精神的に病んでいるのです。」
「その精神性において旧世界と新世界との間には大きな開きがあるとわたしたちも思います。住民一人一人の自覚的な精神的向上なくして今のこの世界はありえませんからね。そして精神的なものは子供の頃から社会的に植え付けられなければなかなか人の心に根付きませんからね。だからこそわたしたちは、中学生時代から集中的に始まり、それ以後一生涯続く精神的な学びを重要視しているのです。」
「なるほど…。 ところで美沙さん、先ほど大学で今は歴史とフィールドワークのほかに本質理解を学んでいて、その中でもその本質理解が最も大切なのだと言っていらっしゃったように思うんですが、具体的にその本質理解の授業ではどんなことを学んでいらっしゃるんでしょうか。」
「はい、本質理解の授業では、かつて中学時代に習った『心の理解』の延長のような形で学んでいます。もちろん今は、より体系的に、より目的意識を持って、より深く学んでいます。将来、わたくしたちが地区改善の仕事に実際に携(たずさ)わったときに、住民の方たちにその改善の必要性を理解してもらい納得していただいた上で変えていかなければなりませんから、そのとき説得力のある議論ができるためにも今のうちに自分自身が十分に本質を理解し、さらにその理解した本質をしっかりと身に着けておくことはとっても大切なことなのです。そのためには、本質的な世界観と本質的な価値体系が確立していなければなりません。そしてそのような世界観と価値体系とを確立するためには、何よりもまず本質、すなわち、この世で一番大切なことは何か、この世の真実とは何か、というようなことに対してわたくしたちの能力の限りを尽くして追求し、それに肉薄していなければならないんです。本質あるいは真実そのものに対する最もそれらしい理解と説明が用意されていなければならないのです。その本質理解に基づいてこの地球社会のあらゆることがらが価値付けられ、秩序付けられるのですから…
 わたくしたちは、人類の過去の最高の精神的遺産である、神話や宗教や哲学やそのほかのさまざまな学問や芸術作品や科学的真理や生活形態や習俗習慣といったような多方面にわたる多くのことを学びながら、もっとも真実に近い真理の体系を構築しようとしています。それによってこの世界が成り立っている根源的な理法(りほう)といったようなものを明らかにしようと努めているのです。今はだいたい一週間に一冊ないし一つのテーマの割合で討議を重ねています。授業の前までに指定された本やテーマに対して自分なりの調べを終えて、授業においてみんなで徹底的にその本質について分析し、統一的な見解へと導いていきます。そういう作業がほとんど毎週継続的に続けられていきます。そして、次の授業においては、これまでの研究の積み重なりの上に新しい題材による討議の成果が積み重ねられていきます。本質理解がさらに広く深く高いものになっていき、真実そのものによりいっそう近づいていきます。これは、あの『百人委員会』別名『哲学委員会』で討議されていることと基本的には同じことなのです。一般の住人たち同士の間でもよくこのことは話題に上ります。人それぞれの宗教的、科学的、哲学的な立場から意見を出し合い、より普遍的な真理に近づこうとしています。本質を理解することは人間として最も大切な義務の一つなのです。住民一人一人のその本質の理解の程度に応じてその地区の精神風土が決まってきます。本質理解が深ければ深いほどその地区は精神的に豊かな環境を形成します。そして住民はその分だけ精神的な悦びをより深く感じることができ、また、その悦びをお互いにより多く分かち合うことができるのです。」
「なるほど、美沙さんたちはそれほど徹底して本質理解に励んでいらっしゃるんですか。ところで、これまで、一人一人の本質権や本質理解やそのほか多くの本質に関わることがらの大切さなどを伺ってきたのですが、それでは、その本質そのものは一体どういうものなのか、皆さんが本質というものをどのように理解していらっしゃるのか大変気になるんですが、どなたかお話いただけませんでしょうか。まあ、本質そのものは真実そのものが人間の理解の届かない永遠の神秘であるのと同じように、いつまでもその本当の姿は分からないものなんでしょうが、それでも今の時点で理解していらっしゃる本質とはみなさんにとってどういうものなのでしょうか?」
「そうですね、今わたしたちの多くは本質について次のように考えています。まず、本質そのものですが、ある者はそれはブラフマンであると言い、またある者はそれを道(タオ)であると言い、又は、純粋エネルギーであると言い、空(くう)であると言い、無であると言い、また、ある者はエホバやアッラー、あるいはまた、隠(かく)れし神であると言い、ある者はPLEROMA(プレローマ)であるとも言います。その他その呼び名はそれぞれの信仰によってさまざまに異なっているのですが、それは皆、この世界の本質そのものであり根源の根源であると考える点では同じものなのです。それはそれぞれの視点の違いから、究極的(きゅうきょくてき)実在(じつざい)であったり、まったき無であったり空であったりします。しかし、いずれの場合も、その本質がこの世界の根本原因であり、そこからこの世界のすべてがはじまるという点では同じなのです。そしてそのように本質とはこの世界の根本原因なのですから、わたしたち人間にとって本質は絶対的な至上価値に他ならないのです。まさに本質は文字通り、わたしたちにとって本質的な、無上の絶対的な価値を持っているのです。ですから、わたしたち人間は、どんなことがあろうともその価値を損なってはならないのです。本質は聖なるものであり、それを畏敬(いけい)し感謝することは他のなにものにも増して守られなければならない第一の律法なのです。本質はどこまでも絶対的であり完全であり浄(きよ)らかであり神聖です。ところでまた、その根本原因である神聖な本質からこの宇宙の一切が生じたのですが、その現象には根本的な法則ないし本来の状態と言うものがあり、それを宇宙の法則と言ってみたり、根本律(こんぽんりつ)と言ってみたり、本質状態と言ってみたり本来の姿と言ってみたりしているのですが、その本来あるべき真実の姿をわたしたちは、全一性ないし一体性において捉(とら)えています。つまり、すべてのものは本来一体であり、一体であるものは自ずから全一的な調和状態ないしは全一的なバランス状態にある、と考えるのです。その中ではあらゆる部分的な偏(かたよ)りは自ずから解消されるのです。しかし、その本来の姿が、われわれ人間の手によって、この地球上で歪められ、汚されてきました。人間の本質的な無知とエゴイズムとによって、また、本質を十分に理解することのできない知性の暴走によってそれはこれまで限度をはるかに超えてなされてきたのです。そのような人類の本質に対する無知と、偏頗(へんぱ)な知性の高慢とによって汚され歪められてきた自然と社会をその本来のあるべき姿に引き戻すために、わたしたちは、ロータスネットワークの先人たちの時代からずっと今日まで、多岐にわたるさまざまな活動を続けてきたのでした。そして何千年にもわたって積み上げられてきた本質に反する、あらゆる人間中心主義と利己主義的慣習や社会制度を突き崩してきたのです。このような活動のすべてはその根本のところで、わたしたちの本質そのものの理解の深まりと相応じているのです。わたしたちは本質をより深く理解し、その理解に相応(ふさわ)しい状態へとこの地球社会をさらに近づけていきたいといつも心に願いながら生活してきているのです。そして、そのような生活は、本質の本来の活動のあり方である全一展開という形をとります。つまり、すべてのものが一体的に、あるいは全一連関的に展開すなわち変化していくのです。そのとき、あらゆるものの間にはいつも全一調和状態が保たれます。すべてのものは大自然本来のそれぞれのあるべきテンポで転じていきます。このように、わたしたちは今では自覚的に、この世界の本質状態を最優先にした、いわば、本質主義社会とでも名づけたいような社会システムの中に生きています。それは王制社会でもなく封建社会でもなく資本主義社会でもなく共産主義社会でもありません。まさに、宇宙万象の本質状態を基盤に据(す)えた社会なのです。本質を社会の基盤に据えることによって、これまで人類が積み重ねてきた自然的および社会的な数え切れないほどの反本質的な問題を解決することができたのでした。そして今わたしたちは、それが本質に反したものでない限り、過去のさまざまな社会体制の中から本質的に良い部分だけを引き続き継続的に生かしてきてもいるのです。」
「ああ、なるほど、大変よく分かりました。この社会にとって、本質と、その本質を理解することがどれほど大切なことなのか今ようやく分かりかけてきたような気がします。」
「それはよかった。」
「ええ、ほんとに。わたくしも嬉しいですわ, わたくしたちのことが分かっていただけたようなので…」
「よかった、よかった、小山さん、ほんとによかったね。」
「はい、おかげさまで。 理沙ちゃんも、ありがとう。」

 わたしはモニター画面でひとりピアノを弾き続けていらっしゃるセレステさんの、その真剣な中にも優しさの漂よう姿を眺めながら、自分が今いるこのロータス200年という時代が本当に分かってきたように感じていた。


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 そのとき、モニターの中のセレステさんが、ショパンとメシアンの小品を弾き終えて、いよいよ『平均率クラヴィーア曲集 第一巻』、前奏曲とフーガの第一番から第二十四番までの演奏に取り掛かろうとしているところだった。誰からということもなく、わたしたちは皆いったん話を切り上げて、その演奏のはじまりに注意を向けていた。わたしはといえば、先ほど聴いた美沙さんの演奏を脳裏(のうり)に呼び起こしながらその演奏の始まるのを待っていた。

 やがてピアノの鍵盤をたたくセレステさんの指先から立ち上がってきた第一番の前奏曲のリズムと調べが室内に響き始めた。しばらく聴いているうちに、わたしは先ほどの美沙さんの演奏とどこか共通する音楽的な性質(たち)を感じていた。その思いはやがて次のような言葉になって表れた。

「やはり血のつながりというようなものが音楽にも現れるものなんでしょうか、先ほどの美沙さんの演奏と非常に良く似た音楽的感性を感じます。とてもピュアで、とてもナチュラルで、とてもスピリチュアルな演奏ですね。本当にいつまで聴いていても飽きのこない、心に優しい演奏ですね。本当に良いものはやはりいいですね。」
「小山さん、今の言葉、妻が聞いたらきっと喜ぶと思います。小山さんは意識されていないかもしれませんが、今おっしゃったことはわたしたちにとって最高のほめ言葉なのです。つまり、純粋で自然で精神的ということは、本質を最高の価値として生きているわたしたちにとって、永遠の努力目標であり、永遠の祈りであり願いなのです。わたしたち人間にとって、この世界の本質は、さまざまな物質やいろいろな生き物や人間の子供たちのように純粋で自然であり、また、本質的に成熟した人間のように精神的なものなのです。いえ、もっと正確に言えば、わたしたちはこの世のあらゆるものの中に、自己中心的な汚れの無い純粋性と、作為的(さくいてき)でない自然性と、全一統合的な精神性を観じるのです。一つ一つの素粒子の中にも、原子の中にも、分子の中にも、また、この地球上に生きているあらゆる生き物たちの一つ一つの細胞の中にも、器官の中にも、個体の中にも、もちろん一人一人の人間の心の中にも、すなわちこの世のあらゆるものの中に純粋性と自然性と精神性を観じています。ですから、わたしたちは、いつも、あらゆるものの本質的性質である、ピュアでナチュラルでスピリチュアルなあり方を生活の理想としているのです。何をしている時でもそのように生きることができるようにと工夫しています。そしてそのような工夫の中にまた生きる悦びも楽しみも幸せもあると考えているのです。」

 わたしは自分の言葉に対する山本さんの思いも掛けない反応に少なからず驚きながらも、その言葉が図(はか)らずもセレステさんの演奏に対する最高のほめ言葉になっていると知って嬉しかった。そしてそれが同時に美沙さんの演奏に対しても間接的に最高のほめ言葉になっていたことがさらに嬉しかった。

「小山さん、今わたしが言ったことは、これらの絵の中にも象徴的に表現されているんですよ。」 と言って、山本さんは、部屋に飾ってある例のレオナルド=ダビンチの 『 モナ・リザ 』 とパウル=クレーの 『 アド・パルナッスム 』 を指差した。

「このレオナルドの絵は、自然と人間とが相互に切り離しがたく一体的に照応(しょうおう)していることを、また、こちらのクレーの絵は、人間精神の神秘的な諧調(かいちょう)を描いているとわたしたちは考えているので、多くの人たちがこれらの絵を家に飾っています。日常生活の中でこれらをいつも目にすることによって、わたしたちは自然の純粋性と作為的でない自然性と、わたしたち人間に特に豊かに恵まれている精神性の全一統合的な諧調をつねに思い起こすようにとの願いからなのです。そして、わたしたちは日常の生活の中でそのような純粋性と自然性と精神性を無意識裡のうちに表現できた時はほんとうに嬉しくなります。それはわたしたちにとって、この時間的世界に今存在している事の本質的悦びを無限に増幅(ぞうふく)してくれる心の糧(かて)なのです。」

 わたしは改めて壁に掛かっている二枚の絵を眺めていた。そしてそれらの絵がそこに掛けてある意味を知ってさらに感慨(かんがい)を新たにしていた。

「小山さんって案外すごいかも!ちっとも意識していなくても、わたしたちにとって最高の言葉が自然に出てくるなんて、ほんとにすごい!」
「いやあ、それほどでもないよ理沙ちゃん、ぼくは心に浮かんだことをそのままただ正直に言っただけなんだから…」
「いえ、小山さん、ほんとうに素晴らしいことですわ、わたくしたちがいつも心に掛けている三つの言葉をみんなさりげなくおっしゃるなんて、とっても素敵なことですわ!」
「いやあ、美沙さんにまでそんなに言って頂けるなんて、チョット照れちゃいますね。」

 私は嬉しさのあまり自分の頭をごしごし掻(か)いていた。

「いや、まったく素晴らしいことですよ、小山さん。いやぁ、きっと家内も驚きますよ、そして大変喜ぶと思いますよ。」
「お母さん早く帰ってくればいいのに…」 理沙が呟(つぶや)いた。

「今何時かしら。あらもう六時を過ぎてるわ。今日の夕御飯はどうなっているのかしら。もしまだ用意できていないのだったら今から何か準備しなくっちゃいけないわ。」
「ああ、お母さんが何か準備したものを冷蔵庫の中にしまってあると言ってたけど、チョット見てくれないか、美沙。」
「はい、ちょっと見てみます。」と言いながら、美沙は台所へ入っていった。
「あら、もうすっかり用意されているわ、あとはちょっと火に掛けるだけの状態になっているから、お母さんが帰ってきてから始めてもいい位だわ。」
「ああ、そうかい、それならお母さんが帰ってくるまで待とう。そんなに遅くはならない筈だから、今日は。」
「そうね、そうしましょう。」
「だけどわたしチョッとおなか空いちゃった。何か他に食べるもの入ってなかった?」
「理沙は少しお行儀ぎょうぎが悪いですね。」
「ああ、そうだ、わたくし今日大学からの帰り道でクッキー買ってきたんだわ、それをみんなで食べましょうよ。理沙ちゃんの減った小腹(こばら)もこれできっと満足するでしょうよ。」
「ワァ~、クッキー!? どんなクッキー買ってきたの? 早く食べましょうよ、お姉ちゃん。」
「はい、これよ。 ちょっと理沙ちゃんも手伝って、お茶を入れるから。」
「はぁ~い!」

そのまま二人は台所へ入っていった。
残された二人は、セレステさんのピアノ演奏を聴きながらさらに話し続けた。

「山本さん、皆さんが求めていらっしゃる社会というのはどんなイメージの社会なんでしょうか?」
「そうですね、いってみれば、世界中の人々があたかも暖かい一つの家族であるかのような、そして地球全体が桃源郷(とうげんきょう)あるいはエデンの園であるようなそんな地球社会でしょうか。つまり、この世のあらゆるものが調和して一体となっているような世界とでも言えるでしょうか。それは結局、ちょっと表現は固いですが、この宇宙の本質である全一調和状態の地球生命系的実現状態といったようなものなのです。つまり、何度も繰り返し言っていますように、あらゆるものが本来あるべきその本質状態にあることなのです。どこにも偏(かたよ)りの無い、全てのものが公平な状態にあって、それぞれがそれぞれ固有の本質を十全(じゅうぜん)に発現(はつげん)しているようなそんな世界なんです。」
「なかなか実現の難しい世界ですね。」
「ええ、もちろんこれは人類永遠の見果てぬ夢なのです。見果てぬ夢には違いないんですが、それでもそのような理想状態に一歩でも近づきたいという願いと継続的な努力があれば、昔のような私的欲望を中心とした不公平制度の中の、混乱と対立の悲劇でいっぱいの社会に逆戻りすることも防げますから…」
「ああ、なるほど、そういう効果も期待できるんですね。」
「はい、そうなんです。わたしたちの心の持ち方次第で世界は変わりますから、正しい心の姿勢を保っている限り、良くなることはあっても悪くなることはありませんからね。わたしたちは今の社会制度にほんとうに満足しているので、どんなことがあっても昔のような愚かしい社会制度の下で生活したくは無いのです。それを防ぐためにはこの命を投げ出しても惜しくはありません。美沙や理沙たちのためにもきっとそうするでしょう。」

そこへ理沙が菓子盆にクッキーを盛って運んできた。

「なあにお父さん、わたしとお姉ちゃんのためにきっと何してくれるの?」
「いや、なんでもないよ、こちらの話だよ。」
「ふーん、なんだか気になるなあ…」
「理沙は気にしなくてもいいんだよ。それより理沙、お前の同級生の和ちゃんその後元気になったのかい。」
「ああ、和ちゃん、和ちゃんはもう元気に学校に来てるよ。こじらせてた風邪ももうすっかり治ったみたい。」
「そう、それは良かったね。」
「うん。 小山さん、もうすぐお姉ちゃんが紅茶入れて持ってくるからね。」
「あ、どうも、ありがとう。」

ほどなくして美沙がティーカップに入れた紅茶を運んできてそれぞれの前に置いて言った。

「クッキーはそんなに甘くないので、紅茶にイチゴジャムを入れて飲むとおいしいと思います。お父さん、紅茶にジャムを入れましょうか?」
「ああ、すまないね。」
「小山さんもジャム入れるでしょう。わたしが入れてあげる。」
「ありがとう、理沙ちゃん。理沙ちゃんにはお世話になりっぱなしだなあ。」
「いいのよ、小山さん。こんなことお安い御用だわ。」
「さあ、どうぞクッキーも召し上がれ!このクッキーはいろんな木の実の入ったクッキーなんですよ。橡(とち)の実や椎(しい)の実や団栗(どんぐり)やクルミや栗などの砕いたものや粉に轢(ひ)いたものが入っているんですよ。」
「うん、これはうまい。なかなかいけるよ。いつでもお茶請(ちゃうけ)においしくいただけるね。うちの地区ではこれはまだ作ってない筈だ。こんど『三十人委員会』にこの地区でも作るように提案してみよう。」
「そうね、それがいいわ。この地区にも多くの山林があるからいろんな木の実が採れる筈よね。」
「ここで作られたら理沙たちいつでもこのクッキー食べられるようになってうれしいな。」
「このクッキー、ほんとに紅茶に合いますね。そのアイデアいいですね、山本さん。きっと、採用されると思いますよ。」 私はこちらの事情があまりよく分からないままそう言った。
「小山さんもそう思いますか。それじゃさっそく申請してみましょう。」
「これは、万一の食糧難のときなんかも活躍しそうですしね。」
「ほんとに。」

 わたしたちは紅茶とクッキーを味わいながら上機嫌で話を続けた。理沙がもっとも上機嫌だったのは言うまでもない。そして、クッキー談義も一段落したところで、美沙さんがさきほどの授業の話を続けた。

「小山さん、来週の『本質理解』の授業でわたしたちはちょうど西暦2003年に発表された『無のかなたへの祈り』を取り上げるんですよ。この小さな作品の作者は、この世界の究極の実在をPLEROMA(プレローマ)であると考えているんです。そしてそのPLEROMAはこの世の一切の源である完全に統合された純粋エネルギーだと考えています。それはこの宇宙の物質概念にも時間概念にも空間概念にも当てはまらない場、ないしは、状態なので、物質的、時間的、空間的に言えば『無』なのですけど、その中からこの宇宙の一切が生まれる万象の源という観点から考えると真の『実在』に他ならないものなのです。そしてそれがこの世の本質であり、その完全統合状態がこの世の本来あるべき状態だと考えるのです。そして、この地球世界もその本質状態を維持するべきであって、そのような本質の実現状態が桃源郷であり理想世界であると考え、そのような状態に限りなく近づけていくために、その本質を正しく直感する事のできる人間にとっての唯一つの機能である精神機能をできる限り高めていきながらその実現に向かって生きるのが人間として最高の生き方であると考えています。そしてこの作者の考え方が今やわたしたちのこのロータス社会の基本的思想ないしは世界観の一つとなっているのです。わたしたちはもう何度もこの作品を読んでいるのですけど、再度この作品を取り上げてその基本の考えを新たにするのです。これは、いつも基本に戻って決して基本から外れる事のないようにとの配慮からなのです。人間て、案外忘れっぽい生き物ですから、放っておけば好き勝手なわがままを始めてしまうものですからねえ。」
「ええ、ほんとにそうですね。」
「小山さん、この作者はわたしが先ほど話した、例のユートピア小説の作者と同じ人なんですよ。『無のかなたへの祈り』は実際の発表よりは大分前に書かれたものらしいのですが、発表の場を持っていなかった作者がようやくインターネットを通じて発表できたのが西暦2003年だったというわけなんです。もちろんこの作品も例のユートピア小説と同じように2013年頃まではほとんど注目を浴びることはなかったんですが、ユートピア小説が注目を浴びると同時に読まれだしたのです。」
「そうですか…」

 わたしは山本さんと美沙さんの話を聞きながらも、一方では密かに山本さん一家の外面的な遺伝的関係を観察していた。モニターの中のセレステさんも含めて、四人ともその目元と口元が非常に上品であった。そのことはなんとなくこの一家の精神性の高さのようなものを思わせた。そしてそれは、なぜともなく人の心の様子はその目元と口元にもっとも顕著に表れるものだというような思い込みがあったわたしにはなるほどと納得できるのだった。

 山本さんと理沙ちゃんとの間には、先ほど感じたような遺伝的な類似性がはっきりと見て取れた。しかし、山本さんと美沙さんとの間にはそれほど顕著な親子の類似性が認められなかった。それでは、セレステさんに似ているかといえばそうでもなかった。美沙さんにはなぜか他の三人の家族との明らかな遺伝的類似性が見当たらないのだった。わたしにはそれが不思議でならなかった。そして、その不思議な思いのまま、また抗あらがいがたく美沙さんの目元と口元、そしてその天上的な声音(こわね)に心を引き寄せられていた。


     9


 ロータス200年7月4日の夕暮時、JP-136地区の山本さん宅のリビングで、セレステさんのピアノ演奏をモニターを通して聴きながら、山本さん父娘と語り合って過ごすこの時間は、これまで生きてきたわたしの三十年の人生の中でもかつて味わった事のない、精神的な幸福感に満ち満ちたものだった。素晴らしい知恵と優しい心に溢れた、それでいながらいざとなればもっとも大切なもののために自分の命を投げ出す覚悟のある人々によって成り立っている、物質的・身分的平等が保障され、精神的・本質的自由を楽しむ事のできる社会が現実に眼の前にある…。 最初から永遠本質に基づいた人類全員の自由平等を目指した地球社会がここにある…
 それは、わたしがこれまで生きてきた社会の現実からは想像すらできないような理想郷であった。できることなら目の前のこの世界から、かつて居た世界へ二度と戻りたくないと思った。これが夢ならいつまでも醒めてほしくないと切に願った。わたしもこの地区の住人の一人になっていつまでも山本さんたちと共に親しく生活していきたいと祈った。わたしもピアノを習ってセレステさんのようにバッハの平均率が弾けるようになりたいと思った。わたしも美沙さんと一緒に地区改善員の仕事がしたいと心底から思った。私も理沙ちゃんのようにいろいろな生き物たちと一体化してみたかった。そして、純粋で自然で精神的な一生を送りたいと思った。

「小山さん、なに考えてるの?」
「あ、いや、なに、なんにも…。 なんだか、あんまり皆さんが親切で善い人たちなので、そしてあんまり素晴らしいピアノ演奏なので、そしてあんまり素晴らしい世界なんで、なんだかボーッとしてしまって…」
「ふふふ、変なの。」
「もう、正直なところ、昔の西暦2003年の世界には戻りたくないですね。いつまでもこの世界にいたいです。人間として生まれてきた以上、人間に相応しい最高の生き方を求めるのは人間として当然の願いでしょう。それがこの世界では叶かなえられ、昔の世界では叶えられないということが口惜しいんです。」
「小山さん、この地区に引っ越してくればいいじゃない。委員会に申請を出してこの近くの空き家に住めばいいじゃない。そうすればいつでもわたしたちと会えるから。小山さんが分からないことわたしがなんでも教えてあげるわよ。庭の手入れの仕方や、この地域の決まりやその外なんだって教えてあげるわよ。わたしがわからないことはお姉ちゃんやお父さんに教えてもらえばいいじゃない。ねえ、そうしなさいよ、そうすれば理沙も嬉しいし…」
「ありがとう。理沙ちゃん。ほんとにそうしたいなあ。」
「そうしなさい、ねえ、きっとそうしなさい、小山さん。」
「そうなれば、わたしたちも嬉しいですわ。」
「美沙さんも、どうも、ありがとう。」
「そうですね、まあ、明日も、もっといろんなことを聞いたりいろんなところを見たりして、それで気に入っていただければ、それもまたいいでしょうね。」
「はい、明日もいろいろ拝見させていただきます。そうすればきっと、ますますこの地区が好きになってしまうでしょうね。」
「ホントにそうなればいいな。うん、きっとそうなるわ。」

「ところで、山本さん、なぜこの世界はロータス暦なのでしょうか。そのことに何か特別な理由でもあるんでしょうか。もしあればぜひ教えてください。」
「そうですね、ロータス暦には象徴的な意味が込められているんですよ。ロータスはこの現実世界と永遠の真実世界を結びつける聖なる花なんです。そしてそのようなロータスは永遠そのものを表しているといってもいいのです。永遠は、真実世界の真のあり方であり、それは完全な、すなわち何一つ欠ける事のない全一的な真実世界の相(すがた)なのです。永遠には本質が充満しており、いかなる部分的な偏りもありません。そんな世界に生きているということの象徴としてロータス暦が使われているのです。西暦時代に生きていた人たちは、部分的個人的な人間的時間の中に生きていたのですが、わたしたちは今、全一的普遍的な永遠そのものの中に生きているんです。永遠そのものの中には時間というものがありません。ですから、ロータス200年という言い方には矛盾があるのですが、まだわたしたちは人間的な時間概念を引きずって生きているので今は仕方がないのです。しかし、いつの日にか完全に時間概念を払拭(ふっしょく)した日には、暦(こよみ)そのものがなくなり、歴史というものもなくなってしまうでしょう。それほどまでに人間の意識が精神化し完全なものになるにはまだ何千年何万年とかかるのかもしれませんね。しかし、今もうすでにわたしたちの多くは、永遠感覚の中に生きています。永遠観ないしは永遠視座から、この世界全体と自分自身を一体的に見ているのです。もはや、普遍的な全体観がわたしたちの日常的なものの見方となっていて、個人的部分的なものの見方、すなわち、過去現在未来に分かれた時間的な見方や死によって区切られた人生といった見方もいたしません。全ては永遠の中では一体であり、ただ、時間や生死を超えた全一的な変化(へんげ)だけがあるのであって、その永遠の変化そのものと一つに融けあって生きていくことだけが真の生き方であると考えているのです。それをある人は永遠即如の実存と言い、またある人は絶対実存と呼んでいます。」
「永遠ですか…、絶対実存ですか…」
「永遠であり全一的な絶対世界なのです。」
「そのようなことはこれまで一度も考えたことがありません。」
「西暦時代に住んでいる人では無理もありません、その時代で永遠を生きていた人はごくわずかなのですからね。それも非常に初歩的で中途半端な永遠を生きていたに過ぎないのです。ロータス暦に入ってからも、本当に永遠感覚が一般化し、深まってきたのはここ数十年のことに過ぎないのですよ。しかし、今では相当レベルの高い永遠感覚を生きる人が増えてきました。また、人は競って自己の永遠視座を高めようと精進しています。それでますます社会全体として永遠観が浸透し、深まっているのです。正しい環境がととのえば、人々の正しい意識と正しい生き方もととのってくるのですから。」
「技術的な進歩だけじゃなくて、精神的な向上も著しいのですね。」
「もちろん、まだまだ完全性からは程遠いのですが、それでも本質的な正しい方向に着実に向上しているものとわたしたちは信じています。」
「本当に、聞けば聞くほど感心させられます。本当に生きているって素晴らしいことなんですね。」
「本当にそうですわ、小山さん。生きていることは素晴らしいことですわ。」
「わたしもその永遠感覚を味わえるようになれるものでしょうか?」
「もちろんですとも。もともとだれにでも生まれつき永遠感覚が備わっているのですから、ただそれを引き出してやるだけでいいんです。すぐにそのコツが飲み込めるようになりますから、何の心配も要りません。しばらくこちらに滞在しているうちに自然と味わえるようになりますよ。」
「そうでしょうか。それなら嬉しいのですが。」
「小山さんなら大丈夫よ。理沙が太鼓判を押してあげる。」
「理沙ちゃんはまったくもって心強い味方だなあ。ほんとに助かるよ。」
「うふふ。」

 わたしはこれまでまったく知らなかった新しい世界が次々と眼の前に開かれていくことに本当に圧倒されていた。そしてこれまで生きてきた世界だけが世界だと思っていた自分の愚かさ加減に腹が立った。今ではこれまで生きてきた世界が本当につまらない欠陥だらけの偽りの世界だと思われてきた。そしてそんな世界に生きている人間の不幸を哀れんだ。人間は社会システムと意識のあり方次第で全ての人がもっとずっと幸せに暮らせるのだと思うと腹立たしかった。一体誰がこのような利己主義と偽善に満ちた世界を作り出したのか自分なりにその原因を追究してあらゆる人の前にそれをあばいてやりたいと思った。そうしないではいられないような気持ちだった。何者かに騙(だま)され思うように操(あやつ)られている自分自身に対してと同時に同じように騙され操られている社会全体に対しても腹立たしい思いがした。自然と人間を搾取する社会システムの中に、これまで何も知らずに生きてきたことを一人の人間としてまったく不甲斐ないと思った。しかし、そう思いながらも、今はもっとこのロータス世界について知りたいと考えさらに訊ねた。

「山本さん、実際に永遠感覚というのはどのようなものなのでしょうか。どのような心の状態になるものなのでしょうか。」
「そうですね、永遠感覚というのは、自分が世界そのものと一体化してしまう感覚なんですけれども、世界そのものは永遠無限でどこまでも人間の認識の手に届かない神秘的なものですから、イメージ的には自分も世界そのもののように無限大になり、心は透明に無心の状態になり、時間的には過去も未来もなくなってただ一体的に展開している現前の今だけがあり、恐怖心もなければ幸福感もなく、あるのはただ純粋な生命の充実感だけといったような状態とでもいいましょうか。まあ、実際のところ永遠感覚は言葉で表現できるようなものではないので、おおよその感じをお話するだけなのですが、いずれにせよ、精神的に世界と自己とが完全に一体化し統合された状態を生きているということは確かだと思います。そのとき、人は利己的になるかというとそうではなく、偏執的(へんしゅうてき)な自己中心性は消え失せて、全一調和的な直感世界に生きるようになります。それはそのまま宇宙万象の本質的な姿であり、生きとし生けるものたちの本来の姿でもあります。いわば、永遠感覚は人間本来の本質的な姿なのです。永遠感覚において、わたしたちはこれまでそれから離脱してしまっていた人間本来の本質状態に帰ることになるのです。ただし、人間の本質状態は、他の動物たちのような純粋な生命世界に、新たに人間の本質的属性である精神機能が加わった世界なので、それは精神的本質状態とでも名付けたいようなものなのです。ですからそれはエゴイズムの浄化された、純粋な精神的生命世界に生きているとでも言えるでしょうか。まあ、おおよそそのような状態だと思います。小山さんも、そのうちぜひ一度ご自分で体験なさってみて下さい。そうすればわたしが今説明している事もお分かりいただけると思いますから。」
「ええ、はい、ぜひそうしたいものですね。」
「まあ、また、これだけは言えると思います。つまり、永遠感覚には、あらゆる部分的偏りがないということです。永遠感覚は無限に向かって開かれていて、個人的なエゴも、地域的なエゴも、民族的なエゴも、宗教的なエゴも、人種的なエゴも、国家的なエゴも、人類的なエゴもないということです。全てが一体であり、公平であり、本質的・全一連関的に自由だということです。ですから、永遠感覚はこのロータス世界の基盤ともなっている本質的全一的世界観の日常的なあり方でもあるということです。」
「なるほど、永遠感覚の持っている個人的ないし社会的な意味のようなものが少し理解できたような気がします。」
「わたしたちはあらゆる形の部分思考の呪縛(じゅばく)を超えて、全一思考による全一調和世界の構築を究極的な目標の一つとしているのです。そのためにも永遠感覚をより一層人々の間に広め、浸透させていくことが大切だと考えています。」

 わたしは山本さんの話に頷(うなず)き返しながら、モニターの中のセレステさんを眺めていた。十年前のセレステさんが少しも気負いのない自然な動きの中で、バッハの深い精神的な音の世界をわたしたちに伝えてくれる。わたしはしばらくそのままその音の世界に浸っていた。しかしそのうち唐突に登校拒否の問題が頭に浮かんできた。

「ああ、そうだ、ところで理沙ちゃん、今中学校で登校拒否の子は何人ぐらいいるのかな。」
「えっ? 何、それ。」
「登校拒否、それとも引きこもりの子といった方がいいのかな。」
「理沙それ何のことだか分からないわ。」
「小山さん、こちらでは登校拒否児童は一人もいませんわ。引きこもりの子供も大人もいません。昔はそのような問題が日本にあったようですけど、今はまったくそのような問題はないのです。みんな楽しく学校で学んでいます。家庭でも学校でも職場でも、誰も、人をいじめたり、暴力を振るったりいたしませんし、リストラもなければ出世競争のようなこともないのです。みんながお互いに助け合いながら勉強したり子育てしたり仕事をしたりしていますから、登校拒否や引きこもりや家庭内暴力や党派争いや根拠のないうわさを流したりや中傷し合ったりということがまったくないのです。」
「そうでしたか。そうでしょうね、まったくわたしももうそろそろ、今の社会と昔の社会の状況の違いを認識して、そのことに思い至ってもいい頃ですよね。しかし、なにしろわたしの生きている社会ではそのような問題がいつまでも続いていていつ終わるとも知れないのですから、ついついこのロータス社会にもそのような問題があるのではないかと思ってしまうのです。まあ、それほどにもわたしたちの生きている社会が愚かしく不完全だということなのですが…。 それにしてもそのような社会に住んでいることは人間として悲しいことですし、情けないことです。」
「そうですね、まったく昔の世界は、王侯貴族や大地主や大資本家などを頂点とした強欲で利己的で反本質的な階層を頂点として、巧みに国家や軍隊を利用し、あるいは金の力や脅(おど)しや情報操作などさまざまな手段を駆使(くし)して、善良な庶民を騙(だま)して戦争を頂点としたあらゆる種類の害毒(がいどく)を直接的間接的に世界中に撒(ま)き散らしていましたが、そして、登校拒否や引きこもりの問題などもその派生的(はせいてき)な問題の一つともいえるのですが、今ではそのようなこともなく、みんな絶対的平等の中で本質的な自由を楽しんでいるのです。もはやどこにも帝国主義的な反本質的社会を生み出す勢力も主義主張もないんです。女性に対する男の横暴(おうぼう)もありません。いかなる差別もありません。そのような愚劣な精神性は徹底的にこの地球社会から駆逐(くちく)されてしまいました。今は、愚かしい武器を作る人間もいなければ騙されたり強制されたりしてそれを使う人間もいません。また、お金のために愚かしい製品を作る人間もそれを買う人もいませんし、愚かしい遊びに現(うつつ)を抜かす人間もいないのです。もう、地球社会は本質的なことを中心にして統合されているのです。アフリカですら今はその社会状態が大きく改善されました。何千年にもわたる人類史の、自己中心的で反本質的な悪の連鎖はことごとく断ち切られてしまったのです。全一調和に反する世界中のあらゆる勢力は駆逐(くちく)されてしまったのです。」
「ええ、そうでしたね。本当にそうなんですねえ。そして今は多くの人が永遠感覚を生きているんですねえ。もう、つまらないことに貴重な人生の時間を浪費することもなく、真に本質的なことに打ち込んでいらっしゃるんですねえ。」
「はい、その通りなのです、小山さん。」


     10


 本質が輝いている世界、本質を最優先する世界、自己中心的な負のスパイラルが寸断されてしまった世界、永遠感覚にあふれた世界、一人の悦びがみんなの悦びとなる世界、生きとし生けるものたちが協奏しあう世界、本質的生産と分配のシステムが確立した世界、本質的自由と平等が保障された世界。わたしがつい数時間前まで生きていた、自分勝手な欲望の自由を生きる西暦世界と比較するとき、このような永遠本質に溢れたロータス世界に生きていることが一人一人の人生をどれほど違ったものにするか容易に想像できた。歪みのない円満な、精神的光に満ちあふれた永遠がこの世界にはあった。そしてその時ふとわたしは、このロータス世界と対比するように、いつも通勤している渋谷の駅前の様子を思い浮かべていた。また、時々用事や買い物で足を伸ばす新宿や池袋、それから町田や川崎の駅前の様子を思い浮かべた。そして犇(ひし)めき合うコンクリートビルと欲望の自由を生きる人々によって織り成されるその煌(きらび)やかさと猥雑(わいざつ)さの入り混じった情景に、これまで感じたことがないほどの激しい嫌悪感を覚えた。そしてこのロータス世界に生きる人たちが考えているように、わたしたちの生きているこの地球世界が本来いつも永遠の中にあるのだとしたら、渋谷や新宿や池袋や町田や川崎の駅前の情景は、歪(いび)つにねじけた永遠であり、汚濁(おだく)にまみれた永遠であり、そのあまりの醜悪さに思わずうめき声を上げてしまうような永遠であった。同じ永遠でも、それは本来の浄らかで伸びやかな永遠ではなかった。本質に満ち溢れ、悦びにはじける永遠ではなかった。そこには、享楽と退廃に蝕(むしば)まれた心、淫靡(いんび)な欲望と暗いエゴイズムの蔓延(はびこ)るにまかせた心が渦巻く、醜怪(しゅうかい)きわまる永遠が蠢(うごめ)いているのだった。わたしは脳裏に浮かぶ欲望の自由を生きている西暦世界の人間の醜さに思わず心の目を背(そむ)けた。そしてコンクリートビルと欲望に眼の眩(くら)んだ人間とで織り成される、そのおぞましい現代的都会の情景を脳裏から振り払おうとして思わず、頭をわずかに、しかし激しく左右に振っていた。

「どうしたの、小山さん?」
「あ? うん、いや、なんでもないんだ。 そうだ、理沙ちゃん、さきほどお父さんが言ってらっしゃったけど、理沙ちゃんは小さい頃から花や鳥や蝶が次から次へと好きになっていったんだってね、どうしてそんなに花や鳥や蝶が好きになったのかな?」
「だって、お花も鳥も蝶もみんな嬉しそうに咲いてたり飛んでいたりするんだもの。それを眺めていると、お花や鳥や蝶が悦んでいる気持ちが理沙にも伝わってきてとっても楽しくなってくるんだもん。それで好きになったのよ、きっと。」
「花が嬉しそうにしているのかい?」
「ええ、とっても!」
「鳥も蝶もかい?」
「ええ、そうよ。」
「ふーん、そうなんだ。理沙ちゃんには花や鳥や蝶の気持ちが分かるんだ。」
「小山さんには分からないの?」
「うん、あんまり良く分からないなあ。まあ、だけど、理沙ちゃんにそう言われると、なるほど、そうかも知れないな、という気もするけどね。」
「ふーん、あんまりお花の気持ちが分からないんだ。」
「うん、これまで仕事に追われていて毎日が忙しくて、そんなこと考える暇がなかったからね。」
「小山さん、可哀そう。」
「・・・」
「小山さん、あんまり幸せじゃないみたい。きっと、今住んでいるところ小山さんに合わないのよ。やっぱりこっちに引っ越してきてわたしたちと一緒に住んでもっと幸せにならなくっちゃいけないわ。」
「うん、そうかもしれないね。」
「そうよ、そうに決まってるわ。人はみんな幸せに暮らさなくっちゃいけないのよ!」
「うん、そうだね、ほんとにそうだね。」
「小山さんが不幸せだなんてわたし耐えられない。」
「ありがと、理沙ちゃん。」
「ほんとよ、小山さん!」
「分かっています、理沙ちゃんの気持ちは。」
「それならいいけど…」
「わたくしも、小山さんにはきっと幸せになっていただきたいですわ。」
「ありがとうございます、美沙さん。」
「人は誰も、不幸な生活から多くの災(わざわい)を呼び込んでしまうものですから…。それに、いつの世でも不幸な生活から多くの悲劇や犯罪が生まれてしまいますから、より良い社会のためにも、一つの小さな不幸もあってはいけないんですわ。」
「なるほど、不幸は個人的にも社会的にもあってはならないものなんですね。」
「はい、わたくしたちはそう考えています。」
「不幸は個人的にも社会的にもより大きな不幸を引き寄せるものですからね、小山さん。」
「ああ、なるほど…。 そうですね、この一つながりの世界では幸福は幸福を呼び、不幸は不幸を呼び合うものなんですね。」

 そう言いながら、わたしは不幸と犯罪とエゴイズムに満ち溢れた西暦世界を思って情けなくなってきた。

「小山さん、わたし大きくなって結婚したら、蝶や鳥の喜ぶお花や木をいっぱい植えて蝶々や鳥たちの飛び交う、お花でいっぱいの庭を造りたいの。お父さんはトンボが好きだからここのお庭はトンボのお庭になってるけど、わたしはチョウチョのお庭を造りたいの。蝶々の幼虫が食べる草木を植えて、蝶々が吸う蜜の花もたくさん植えるの。キャベツを植え、カラタチの生垣を作り、菜の花やアリウムやヒャクニチソウやブッドレアなども植えて、春から秋にかけて毎日チョウチョが舞い、鳥が集まるお庭を作るの。モンシロチョウやモンキチョウ、しじみ蝶やアゲハチョウがたくさん舞うお庭を作るの…」
「それは素晴らしいね。この町は、トンボや蝶や鳥やお花で一杯になるね。」
「ええ、町中がトンボや蝶や鳥で一杯の花園になるわ。いえ、もう、花園よ、ここは。」
「そうだね、ほんとに緑と花の多い町だからね。」
「わたし、ほんとにこの町が好き。」
「この町の住人はみんなこの町が大好きなんですよ、小山さん。」
「まったく信じられない世界ですね、このロータス世界は…」
「そうでしょうか。わたくしたちには当たり前のことなんですけど…。」
「まあ、西暦の時代から比べると今はほんとうにいい時代になったからね。小山さんが信じられないとお感じになるのも無理はないことかもしれません。わたしたちはこのロータス時代に生まれてきたことを感謝しなければなりませんね。それから、理沙、結婚してからなんて言わないで、これからすぐにでもこの庭のキャベツ畑の近くにチョウチョの好きな草や花を植えればいいさ。今年は無理でもきっと来年からはもっと多くのチョウチョがこの庭に住み着くようになるよ。」
「ホント~、お父さん!それじゃ、これからキャベツ畑の近くはわたしの蝶のお庭にするからね。嬉しいな。ありがとう、お父さん。」
「理沙ちゃん、よかったね。」
「ありがとう、小山さん。わたしホントに嬉しい。」
「もっと早く気付いていればよかったね、理沙の蝶の庭作りのこと…。 自分のトンボやめだかのことしか考えていなくて悪かったな、理沙。」
「ううん、いいのよ、お父さん、わたしホントに嬉しい。今はキャベツ畑にモンシロチョウやしじみ蝶なんかしかいないけど、来年からはアゲハチョウやなんかもたくさんいるようになるわ。今から楽しみだな。いろんな蝶が花から花へと蜜を求めて飛ぶ様子を見ているとホントに幸せになる。花も蝶も鳥もみんな大喜びよ!」

 純粋で自然で、それでいて精神的なことにも明るく、お互いが思いやりに溢れて幸せに生きている人々の世界がここにはある。皮肉にも本質以外のものなら何でもあった西暦世界の、混乱と欲望と不幸にまみれた時代からは想像もつかない世界がここにはある。利己的な欲望に閉じ込められた世界ではなく、永遠に向かって開かれた心と、永遠に向かって開かれた祈りの世界がここにはある。

「ところで、山本さん、ここには出版関係の仕事はあるのでしょうか。」
「出版?ですか。今は紙に印刷するということはなくなりましたので、出版の仕事はありません。いろいろな芸術作品も全てテレポーターを通して個人的に世界に向かって発信しますから…。どうしてですか。」
「いえ、わたしの今の職場が小さな出版会社なので、もしこちらに引っ越してくるようなことになれば、それを生かす仕事があるかどうか気になったものですから。」
「お仕事の心配はご無用ですわ、小山さん。こちらにはあらゆる種類の公務がありますから、その中から自分ができる事を選んで登録して働けばいいんですわ。」
「小山さん、出版って何? 小山さん何の仕事してるの?」
「うん、いろんな本や雑誌を出している会社で編集の仕事をしているんだ。間違った表現や不適切な言葉が使われていないかどうか原稿をチェックしたり、ゲラ刷(ず)りを校正(こうせい)したり、写真の色校正(いろこうせい)をしたり、その他本や雑誌を出版するために必要なあらゆる仕事をしているんだよ。小さな会社だから何でもしなくっちゃいけないんだ…。」
「理沙、ちっとも解んない!」
「うん、解りにくいだろうね、理沙ちゃんには。」
「どんな種類の雑誌や本を出していらっしゃるんですか。」
「はい、花のランや盆栽ぼんさいの本や、さまざまな仏教の本や、有機農業の月刊雑誌や、その他頼まれればなんでも作ります、他の中堅どころの出版社の下請(したう)けもしていますから…。つい先日は仏教の戒名(かいみょう)の本を出したばかりなんですよ。ところで、ここでもお亡くなりになった方には戒名をお付けになるんですか?」
「いえ、今はほとんど戒名をつけません。生前の名前が生死を超えて永遠の名前として使われています。」
「では、お葬式もないのでしょうか?」
「いえ、お葬式はいたします。ただ、今は昔ほど墓地を持っている人は多くありません。ほとんどの人が川や海での散骨を希望しますから。しかし墓地に葬られたいと希望する人には地区で管理している墓苑(ぼえん)に1平米の墓地が用意されます。しかし、それもそれを守る子孫がこの地区に生活している人に限られます。墓を守る子孫がいなくなればそれも共同納骨所(のうこつじょ)に移されます。」
「そうですか。亡くなった人に対する考え方も変わったのですね。」
「そのうちに、あの世とこの世との区別もなくなってくるのかもしれませんね。亡くなった人も生きている人もいつも一緒に生活しているような、全てが永遠の中で一つに融け合っているような、そんな世界になるのかも…。」
「ああ、なるほど、そうかもしれませんね。」
「みんながまったく差別のない一つの全き永遠世界に生きられるようになれば一番いいんですがねえ。」
「そんな時代がいつか来るでしょうか。」
「きっと来ますわ、わたくし信じています。」
「そうでしょうか。」
「わたくしたちの多くは全き永遠世界の到来を信じているんですよ。いえ、というよりは、わたくしたちはすでに全き永遠世界に生きているのだとすら信じているのですよ、小山さん。」
「そうなんですか、それじゃ、きっと来るんでしょうね、そんな時代がいつか。そしてその時、人類はふたたびエデンの園に、それも最高の知恵といっしょに戻るのですね。純粋性と自然性だけではなく、その上に精神的な知恵を身につけて古(いにしえ)のすべてが調和していた理想郷に帰るんですね。」
「そうですね、そうなればいいですね。」
「すばらしいことですね、ほんとにそれは。」

 わたしはこのロータス世界がこれからもますます精神的に成長し続けていくに違いないと思った。科学技術だけではなく、いや、科学技術以上に精神性が高まり、人々の心がより一層深まり豊かになっていく。そして、ますます真実世界の本質そのものに近づいていき、それと一体化していく。それは、わたしが今は想像することもできないような世界に違いないと思われた。そして、夢の中でもいいからそのような世界に一度住んでみたいと思った。今まで生きていた西暦世界の状態が、人間的な心の壊れてしまったようなおぞましい世界と見えてくればくるほどその思いは強くなるのだった。

「小山さん、わたくしたちの多くは今すでに永遠世界に生きているように感じているのですけど、そうするとなんだか、『無のかなたへの祈り』ではなく『無のかなたからの祈り』を日常的に生きているようにも感じているのですよ。昔の人が無のかなたへの祈りとともに生きていこうと呼びかけたその祈りの多くが現実生活においてすでに実現され、そうすると今はその祈りを超えて、無のかなたなる真実在の永遠本質と一体化した、精神の眼からこの世の人生を眺め返して、その眼に自ずから映(うつ)し出されてくるこの世のあるべき姿や有りようを自分の人生において実現したいという、まさに逆向きの祈りを生きているように感じているのです。わたしたちは無のかなたからの祈りを通して、この世において、昔の人たちが望んだように自己を実現するのではなく、自分を超えた永遠そのものの本質を自分の生命を通して実現していきたいと願っているのです。自己実現というのではなく本質実現を、あるいは自己の本質の実現ではなく永遠そのものの本質の実現を、自分の心身を通して日常的に生きていきたいと祈っているのです。」
「本質実現ですか....無のかなたからの祈りですか。なんだか余りに高遠すぎて、今のわたしにはよく理解できないですね。」
「小山さん、わたしだってお姉ちゃんの言うことはあんまり理解できないのよ。分からなくっても気にすることないわよ。」
「あら、ごめんなさい、わたくしまだ自分の思っていることを人に分かり易やすく説明ができなくって。まだまだ駄目ですねえ、わたくし。」
「いえいえ、こちらこそすみません。わたしの理解が浅いのでなかなか美沙さんのお話についていけなくて。」
「まあ、あんまり精神的な世界の話に深入りし過ぎるときりがなくなってしまいますから、今はほどほどに切り上げましょうか。なんといっても精神世界は真実世界そのものと同じくらい広大無辺ですからねえ。」

 わたしは美沙さんの話を聞きながらふと、自分がまだ、人間にのみ許された、その永遠の精神世界へと開かれた扉の前にすら立っていないのだ、といったような淋しい感覚に襲われていた。しかし、考えてみればそれも無理からぬことだった。わたしと美沙さんとの間を、精神の世紀と呼ばれている21世紀あるいはロータス1世紀が、さらにはそれに続くロータス2世紀の、都合200年以上にわたる人類史的な精神的変革期が隔てていたのだから。そしてまた、まだ二十歳とはいえ、美沙さんは将来の公務に備えて、大学でいわば専門的にこの世界の本質について、そしてまた人間の精神的本質について学び、日々それを深めているのであってみればなおさらであった。



   ・・・ホームページから転載・・・



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