No.3668 LOTUS 200( ロータス トゥーハンドレッド ) 3



 
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 本質が輝いている世界、本質を最優先する世界、自己中心的な負のスパイラルが寸断されてしまった世界、永遠感覚にあふれた世界、一人の悦びがみんなの悦びとなる世界、生きとし生けるものたちが協奏しあう世界、本質的生産と分配のシステムが確立した世界、本質的自由と平等が保障された世界。わたしがつい数時間前まで生きていた、自分勝手な欲望の自由を生きる西暦世界と比較するとき、このような永遠本質に溢れたロータス世界に生きていることが一人一人の人生をどれほど違ったものにするか容易に想像できた。歪みのない円満な、精神的光に満ちあふれた永遠がこの世界にはあった。そしてその時ふとわたしは、このロータス世界と対比するように、いつも通勤している渋谷の駅前の様子を思い浮かべていた。また、時々用事や買い物で足を伸ばす新宿や池袋、それから町田や川崎の駅前の様子を思い浮かべた。そして犇(ひし)めき合うコンクリートビルと欲望の自由を生きる人々によって織り成されるその煌(きらび)やかさと猥雑(わいざつ)さの入り混じった情景に、これまで感じたことがないほどの激しい嫌悪感を覚えた。そしてこのロータス世界に生きる人たちが考えているように、わたしたちの生きているこの地球世界が本来いつも永遠の中にあるのだとしたら、渋谷や新宿や池袋や町田や川崎の駅前の情景は、歪(いび)つにねじけた永遠であり、汚濁(おだく)にまみれた永遠であり、そのあまりの醜悪さに思わずうめき声を上げてしまうような永遠であった。同じ永遠でも、それは本来の浄らかで伸びやかな永遠ではなかった。本質に満ち溢れ、悦びにはじける永遠ではなかった。そこには、享楽と退廃に蝕(むしば)まれた心、淫靡(いんび)な欲望と暗いエゴイズムの蔓延(はびこ)るにまかせた心が渦巻く、醜怪(しゅうかい)きわまる永遠が蠢(うごめ)いているのだった。わたしは脳裏に浮かぶ欲望の自由を生きている西暦世界の人間の醜さに思わず心の目を背(そむ)けた。そしてコンクリートビルと欲望に眼の眩(くら)んだ人間とで織り成される、そのおぞましい現代的都会の情景を脳裏から振り払おうとして思わず、頭をわずかに、しかし激しく左右に振っていた。

「どうしたの、小山さん?」
「あ? うん、いや、なんでもないんだ。 そうだ、理沙ちゃん、さきほどお父さんが言ってらっしゃったけど、理沙ちゃんは小さい頃から花や鳥や蝶が次から次へと好きになっていったんだってね、どうしてそんなに花や鳥や蝶が好きになったのかな?」
「だって、お花も鳥も蝶もみんな嬉しそうに咲いてたり飛んでいたりするんだもの。それを眺めていると、お花や鳥や蝶が悦んでいる気持ちが理沙にも伝わってきてとっても楽しくなってくるんだもん。それで好きになったのよ、きっと。」
「花が嬉しそうにしているのかい?」
「ええ、とっても!」
「鳥も蝶もかい?」
「ええ、そうよ。」
「ふーん、そうなんだ。理沙ちゃんには花や鳥や蝶の気持ちが分かるんだ。」
「小山さんには分からないの?」
「うん、あんまり良く分からないなあ。まあ、だけど、理沙ちゃんにそう言われると、なるほど、そうかも知れないな、という気もするけどね。」
「ふーん、あんまりお花の気持ちが分からないんだ。」
「うん、これまで仕事に追われていて毎日が忙しくて、そんなこと考える暇がなかったからね。」
「小山さん、可哀そう。」
「・・・」
「小山さん、あんまり幸せじゃないみたい。きっと、今住んでいるところ小山さんに合わないのよ。やっぱりこっちに引っ越してきてわたしたちと一緒に住んでもっと幸せにならなくっちゃいけないわ。」
「うん、そうかもしれないね。」
「そうよ、そうに決まってるわ。人はみんな幸せに暮らさなくっちゃいけないのよ!」
「うん、そうだね、ほんとにそうだね。」
「小山さんが不幸せだなんてわたし耐えられない。」
「ありがと、理沙ちゃん。」
「ほんとよ、小山さん!」
「分かっています、理沙ちゃんの気持ちは。」
「それならいいけど…」
「わたくしも、小山さんにはきっと幸せになっていただきたいですわ。」
「ありがとうございます、美沙さん。」
「人は誰も、不幸な生活から多くの災(わざわい)を呼び込んでしまうものですから…。それに、いつの世でも不幸な生活から多くの悲劇や犯罪が生まれてしまいますから、より良い社会のためにも、一つの小さな不幸もあってはいけないんですわ。」
「なるほど、不幸は個人的にも社会的にもあってはならないものなんですね。」
「はい、わたくしたちはそう考えています。」
「不幸は個人的にも社会的にもより大きな不幸を引き寄せるものですからね、小山さん。」
「ああ、なるほど…。 そうですね、この一つながりの世界では幸福は幸福を呼び、不幸は不幸を呼び合うものなんですね。」

 そう言いながら、わたしは不幸と犯罪とエゴイズムに満ち溢れた西暦世界を思って情けなくなってきた。

「小山さん、わたし大きくなって結婚したら、蝶や鳥の喜ぶお花や木をいっぱい植えて蝶々や鳥たちの飛び交う、お花でいっぱいの庭を造りたいの。お父さんはトンボが好きだからここのお庭はトンボのお庭になってるけど、わたしはチョウチョのお庭を造りたいの。蝶々の幼虫が食べる草木を植えて、蝶々が吸う蜜の花もたくさん植えるの。キャベツを植え、カラタチの生垣を作り、菜の花やアリウムやヒャクニチソウやブッドレアなども植えて、春から秋にかけて毎日チョウチョが舞い、鳥が集まるお庭を作るの。モンシロチョウやモンキチョウ、しじみ蝶やアゲハチョウがたくさん舞うお庭を作るの…」
「それは素晴らしいね。この町は、トンボや蝶や鳥やお花で一杯になるね。」
「ええ、町中がトンボや蝶や鳥で一杯の花園になるわ。いえ、もう、花園よ、ここは。」
「そうだね、ほんとに緑と花の多い町だからね。」
「わたし、ほんとにこの町が好き。」
「この町の住人はみんなこの町が大好きなんですよ、小山さん。」
「まったく信じられない世界ですね、このロータス世界は…」
「そうでしょうか。わたくしたちには当たり前のことなんですけど…。」
「まあ、西暦の時代から比べると今はほんとうにいい時代になったからね。小山さんが信じられないとお感じになるのも無理はないことかもしれません。わたしたちはこのロータス時代に生まれてきたことを感謝しなければなりませんね。それから、理沙、結婚してからなんて言わないで、これからすぐにでもこの庭のキャベツ畑の近くにチョウチョの好きな草や花を植えればいいさ。今年は無理でもきっと来年からはもっと多くのチョウチョがこの庭に住み着くようになるよ。」
「ホント~、お父さん!それじゃ、これからキャベツ畑の近くはわたしの蝶のお庭にするからね。嬉しいな。ありがとう、お父さん。」
「理沙ちゃん、よかったね。」
「ありがとう、小山さん。わたしホントに嬉しい。」
「もっと早く気付いていればよかったね、理沙の蝶の庭作りのこと…。 自分のトンボやめだかのことしか考えていなくて悪かったな、理沙。」
「ううん、いいのよ、お父さん、わたしホントに嬉しい。今はキャベツ畑にモンシロチョウやしじみ蝶なんかしかいないけど、来年からはアゲハチョウやなんかもたくさんいるようになるわ。今から楽しみだな。いろんな蝶が花から花へと蜜を求めて飛ぶ様子を見ているとホントに幸せになる。花も蝶も鳥もみんな大喜びよ!」

 純粋で自然で、それでいて精神的なことにも明るく、お互いが思いやりに溢れて幸せに生きている人々の世界がここにはある。皮肉にも本質以外のものなら何でもあった西暦世界の、混乱と欲望と不幸にまみれた時代からは想像もつかない世界がここにはある。利己的な欲望に閉じ込められた世界ではなく、永遠に向かって開かれた心と、永遠に向かって開かれた祈りの世界がここにはある。

「ところで、山本さん、ここには出版関係の仕事はあるのでしょうか。」
「出版?ですか。今は紙に印刷するということはなくなりましたので、出版の仕事はありません。いろいろな芸術作品も全てテレポーターを通して個人的に世界に向かって発信しますから…。どうしてですか。」
「いえ、わたしの今の職場が小さな出版会社なので、もしこちらに引っ越してくるようなことになれば、それを生かす仕事があるかどうか気になったものですから。」
「お仕事の心配はご無用ですわ、小山さん。こちらにはあらゆる種類の公務がありますから、その中から自分ができる事を選んで登録して働けばいいんですわ。」
「小山さん、出版って何? 小山さん何の仕事してるの?」
「うん、いろんな本や雑誌を出している会社で編集の仕事をしているんだ。間違った表現や不適切な言葉が使われていないかどうか原稿をチェックしたり、ゲラ刷(ず)りを校正(こうせい)したり、写真の色校正(いろこうせい)をしたり、その他本や雑誌を出版するために必要なあらゆる仕事をしているんだよ。小さな会社だから何でもしなくっちゃいけないんだ…。」
「理沙、ちっとも解んない!」
「うん、解りにくいだろうね、理沙ちゃんには。」
「どんな種類の雑誌や本を出していらっしゃるんですか。」
「はい、花のランや盆栽ぼんさいの本や、さまざまな仏教の本や、有機農業の月刊雑誌や、その他頼まれればなんでも作ります、他の中堅どころの出版社の下請(したう)けもしていますから…。つい先日は仏教の戒名(かいみょう)の本を出したばかりなんですよ。ところで、ここでもお亡くなりになった方には戒名をお付けになるんですか?」
「いえ、今はほとんど戒名をつけません。生前の名前が生死を超えて永遠の名前として使われています。」
「では、お葬式もないのでしょうか?」
「いえ、お葬式はいたします。ただ、今は昔ほど墓地を持っている人は多くありません。ほとんどの人が川や海での散骨を希望しますから。しかし墓地に葬られたいと希望する人には地区で管理している墓苑(ぼえん)に1平米の墓地が用意されます。しかし、それもそれを守る子孫がこの地区に生活している人に限られます。墓を守る子孫がいなくなればそれも共同納骨所(のうこつじょ)に移されます。」
「そうですか。亡くなった人に対する考え方も変わったのですね。」
「そのうちに、あの世とこの世との区別もなくなってくるのかもしれませんね。亡くなった人も生きている人もいつも一緒に生活しているような、全てが永遠の中で一つに融け合っているような、そんな世界になるのかも…。」
「ああ、なるほど、そうかもしれませんね。」
「みんながまったく差別のない一つの全き永遠世界に生きられるようになれば一番いいんですがねえ。」
「そんな時代がいつか来るでしょうか。」
「きっと来ますわ、わたくし信じています。」
「そうでしょうか。」
「わたくしたちの多くは全き永遠世界の到来を信じているんですよ。いえ、というよりは、わたくしたちはすでに全き永遠世界に生きているのだとすら信じているのですよ、小山さん。」
「そうなんですか、それじゃ、きっと来るんでしょうね、そんな時代がいつか。そしてその時、人類はふたたびエデンの園に、それも最高の知恵といっしょに戻るのですね。純粋性と自然性だけではなく、その上に精神的な知恵を身につけて古(いにしえ)のすべてが調和していた理想郷に帰るんですね。」
「そうですね、そうなればいいですね。」
「すばらしいことですね、ほんとにそれは。」

 わたしはこのロータス世界がこれからもますます精神的に成長し続けていくに違いないと思った。科学技術だけではなく、いや、科学技術以上に精神性が高まり、人々の心がより一層深まり豊かになっていく。そして、ますます真実世界の本質そのものに近づいていき、それと一体化していく。それは、わたしが今は想像することもできないような世界に違いないと思われた。そして、夢の中でもいいからそのような世界に一度住んでみたいと思った。今まで生きていた西暦世界の状態が、人間的な心の壊れてしまったようなおぞましい世界と見えてくればくるほどその思いは強くなるのだった。

「小山さん、わたくしたちの多くは今すでに永遠世界に生きているように感じているのですけど、そうするとなんだか、『無のかなたへの祈り』ではなく『無のかなたからの祈り』を日常的に生きているようにも感じているのですよ。昔の人が無のかなたへの祈りとともに生きていこうと呼びかけたその祈りの多くが現実生活においてすでに実現され、そうすると今はその祈りを超えて、無のかなたなる真実在の永遠本質と一体化した、精神の眼からこの世の人生を眺め返して、その眼に自ずから映(うつ)し出されてくるこの世のあるべき姿や有りようを自分の人生において実現したいという、まさに逆向きの祈りを生きているように感じているのです。わたしたちは無のかなたからの祈りを通して、この世において、昔の人たちが望んだように自己を実現するのではなく、自分を超えた永遠そのものの本質を自分の生命を通して実現していきたいと願っているのです。自己実現というのではなく本質実現を、あるいは自己の本質の実現ではなく永遠そのものの本質の実現を、自分の心身を通して日常的に生きていきたいと祈っているのです。」
「本質実現ですか....無のかなたからの祈りですか。なんだか余りに高遠すぎて、今のわたしにはよく理解できないですね。」
「小山さん、わたしだってお姉ちゃんの言うことはあんまり理解できないのよ。分からなくっても気にすることないわよ。」
「あら、ごめんなさい、わたくしまだ自分の思っていることを人に分かり易やすく説明ができなくって。まだまだ駄目ですねえ、わたくし。」
「いえいえ、こちらこそすみません。わたしの理解が浅いのでなかなか美沙さんのお話についていけなくて。」
「まあ、あんまり精神的な世界の話に深入りし過ぎるときりがなくなってしまいますから、今はほどほどに切り上げましょうか。なんといっても精神世界は真実世界そのものと同じくらい広大無辺ですからねえ。」

 わたしは美沙さんの話を聞きながらふと、自分がまだ、人間にのみ許された、その永遠の精神世界へと開かれた扉の前にすら立っていないのだ、といったような淋しい感覚に襲われていた。しかし、考えてみればそれも無理からぬことだった。わたしと美沙さんとの間を、精神の世紀と呼ばれている21世紀あるいはロータス1世紀が、さらにはそれに続くロータス2世紀の、都合200年以上にわたる人類史的な精神的変革期が隔てていたのだから。そしてまた、まだ二十歳とはいえ、美沙さんは将来の公務に備えて、大学でいわば専門的にこの世界の本質について、そしてまた人間の精神的本質について学び、日々それを深めているのであってみればなおさらであった。




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「山本さん、理想世界にもっとも必要なことは何だとお考えですか?」
「そうですね、理想世界建設に必要なことは、住民一人一人の精神性の向上と、社会システムの完全化だと思います。これらの目標は永遠に続いていく目標です。その追求に終わりというものがありません。それは、まさにその向いている方向が正反対なのですが、人間の欲望の追求に終わりがないのと同じことなのです。そして、欲望の追求が世界の本質を汚しその破壊へと向かうのに対して、これらの追求は世界の本質を無限に豊かにしていきます。」
「人々の精神性の向上と社会システムの完全化ですか?」
「はい。精神的向上についていえば、住民の一人一人が、単なる感覚的、感情的、知性的人間であることを止めて、感覚や感情、それから知性的な思考の枠組を限界付けているその自己中心的な殻(から)を打ち破って、自らを無限の全一的精神世界へと開放し、いつしか大自然と同化し、ついには永遠そのものと一体化してしまうことです。精神的でない人間は成熟した一人前の人間とは言えないとわたしたちは考えます。感覚的、感情的、知性的であるに過ぎない人間は、いつまでも自己中心的な世界に埋没(まいぼつ)していて、まだ全一的な世界に住む一人前の大人になっていないと考えているのです。全一統合的な精神性に目覚めてこそ人は真に人間となるのです。」
「なかなか厳しい基準ですね。」
「はい、なかなか厳しいです。しかし、これは当時、人類がこの地球上で生き延びていくためには避けて通ることのできない、絶対にクリアすべき基準でした。20世紀から21世紀にかけて、生きとし生けるものの生の営(いとな)みの基盤である自然界の健康が犯され、地球上の生態系がいたるところで、ほとんど修復不可能になるほどの危ない状況に立ち至ってしまった以上、いつまでも身勝手で未熟な人間たちが、その欲望を際限も無く自由に追求するような社会システムを続けていくゆとりがなくなったのです。そのような自然環境の危機的状況から抜け出すためには、人間一人一人の心構えと地球社会全体のシステムやルールを変えていくしかなくなったのです。そういう訳で、これは人類が生き延びるための最低線の基準となりました。そしてこれが守れなくなったときは人類が滅びるときです、それも、地球上の罪のない多くの生物種を道連れにして…。」
「分かりました。それは、人類にとって、言ってみれば切羽詰(せっぱつま)った決断だったんですね。」
「その通りなのです。」
「今あるこの世界も、いわばこうなるべくしてなったのですね。それ以外に進むべき道がなくなってこのように変わってきたという訳なのですね。 なるほど。 …ところで、美沙さん、美沙さんは大学でフィールドワークや本質理解の授業のほかに、歴史を学んでいらっしゃるそうですね。その歴史は今どんな内容のものになっているんでしょうか。昔と何か変わった点はあるんでしょうか。」
「はい、歴史ほど変わったものはないくらいに変わってしまいました。西暦時代の歴史は、西洋を中心として書かれていたのですが、今はまったく違います。視座が大きく移動したのです。今は、永遠本質的視座に立って歴史が語られます。昔は西洋にとって都合のいい価値観にしたがって歴史が築き上げられていたのですが、現在では、できる限り公平な、永遠本質的な全一的視座に立って、世界史が書き換えられています。その結果、歴史の中の反本質的な勢力や行為が徹底的に批判されるようになりました。そして、かつては歴史書の中心をなしていた、力に頼り物と金をむさぼる利己的な支配階層による巧妙な策謀的(さくぼうてき)行為が、今は愚かしい行為の典型として歴史書の片隅に記述され、一方、地球社会の本質的価値を守り続けようと努力し続けてきた人々や民族の、その生活や思想などが歴史の本流として大きく取り扱われるようになりました。たとえば、アレキサンダー大王やチンギスハン、中国の歴代の帝王たちや日本の武将たち、そのほかあらゆる武力支配による英雄たちは反本質的人間の典型として、いわば人類史における反本質的時代に生きた、まだ色濃くその獣性(じゅうせい)を引きずったボス猿かなにかのような取り扱いで簡単に記述され、そのほか、ローマ帝国の独裁者たちや産業革命以後の軍国主義的独裁者なども地球生命系の歴史の中の永遠の恥やわざわいとして取り扱われています。また、あらゆる本質を利潤追求の手段にしてしまった資本主義社会の推進者たち、自然を破壊し、人間を手段化し、あらゆるメディアを汚しながら人間の愚かさを大量再生産してきた資本主義経済システム、そしてそのシステムに乗っかって、外交、軍産複合体、大企業や多国籍企業などが渾然一体となって世界を蹂躙(じゅうりん)していく帝国主義的な経済的国家エゴも人類史上最悪の反本質的活動として断罪されています。人種的にはアングロ=サクソンを中心としたヨーロッパ人種が最も反本質的、反精神的な文明を生み出した人種として批判されています。すなわち、近代西洋文明が、最も反本質的な文明として、すなわち大自然の本質的な全一バランスを崩し、本質的清浄性(しょうじょうせい)を汚し、人類および地球生命系に最も被害を与えた呪うべき文明として批判されているのです。永遠の眼に近代西洋文明は本当に忌むべきものと映ってしまうのです。もちろん、自由平等思想と科学技術を生み出したことは、それが欲望にさえ奉仕していなければすばらしい貢献(こうけん)ともなりえたことは認めた上でのことなのですが…。しかし、その功罪を比較してみれば、罪のほうが圧倒的に大きいのです。人類と地球生命系をほとんど絶滅の危機に追いやり、数え切れないほどの反本質的な不幸と対立とアンバランスを地球上に引き起こしてきたのですから。そして今もなお、その後遺症が世界中いたるところで見受けられるのですから。いっぽう、そんな西洋的な反自然的、反本質的文明に虐(しいたげ)られてきた民族や個人の中に、今の本質的文明につながる真に人間的なすばらしい精神活動があるのです。それらの全一的本質に深く根ざした細い一すじの流れが、今のわたくしたちの歴史の中心的研究対象となっているのです。たとえば、日本で言えば縄文人やアイヌ民族、それから日本以外ではイヌイットやネイティブ・アメリカンや中南米のインディオの人々、それからオーストラリア原住民のアボリジニなどです。また、個人的には、その時代時代において、その後継者たちがどのようにそれを展開していったかには関係なく、本質的な立場から社会の支配層や社会制度を批判したり新しい社会のあるべき姿を提唱したりした人々、たとえば、ソクラテスやプラトン、キリストや仏陀、老子や荘子、アウグスチヌスやトマス=モア、安藤昌益や田中正造、ウイリアム=モリスやジョン=ラスキン、河上肇や宮沢賢治、ガンジーやキング牧師、そのほか多くの名も無き人たちです。それぞれの時代において、反本質的な人間によって支配されていた社会制度や世界観を批判し、より本質的な平等社会を目指しながらその生涯を終えた人々の心の祈りを歴史的にたどり直すことによって、わたくしたちの社会システムをより強くより豊かなものにしようとしているのです。」
「それでは歴史観もほとんど180度変わってしまったという訳なのですね。」
「はい、そうなのです。」 
「小山さん、わたしたちは今、過去数千年から一万年にわたる反本質的な人類史を振り返って、その愚かしさをはっきりと認識することを通して、真に本質的な、本来あるべき理想世界の構築を、自覚的により堅固なものにしようと努力しているのです。わたしたちの考えでは、主に過去数千年の人類史は、全一的調和状態を保ち続ける大自然の法から逸脱してしまった、欲望の肥大した、いわば心の病人となった人類によって築き上げられたものであり、そのような文明は、その病が進行して人類自身の絶滅によって終止符を打たれるか、さもなければ、その病から快癒(かいゆ)して、大自然本来の全一調和的文明を築き上げることによって乗り越えられるか、二つに一つの道以外に選択肢の無いものだったのです。そして、今わたしたちは運良く後のほうの道を選ぶことができて人間本来の健康な世界を楽しむことができるようになったという訳なのです。」
「なるほど、人類はこれまで欲望の肥大という慢性疾患の長患(ながわずら)いに苦しんでいたのですか。そして今ようやくその長患いから解放されて本来の健康状態を取り戻しつつあるのですね。」
「はい、仰(おっ)しゃるとおりなのです。」
「それでは、昔の歴史は最も重い心の病に罹(かか)った支配階層を中心として築き上げられた人類の長い病歴のようなものだったのですね。その中に出てくる重要人物たちはみんなとくに重い病人たちだったというわけなのですね。」
「はい、そう言えるでしょうね。」
「まったく、思いもよらないことです、歴史上の多くの英雄たちや名のある人物たちが、本質的に見て精神的重病人患者だったとは。」
「はい、まったく評価が逆転してしまったのです。ということは、それまでの歴史がどれほど本質から遠く逸脱したものであったかということを示してもいるのです。本質的に見て心の健康な人々や民族が、そうでない非本質的人間や民族によって抑圧され、辱(は)ずかしめられ、苦しめられて命すら奪われてきたのです。しかし、それも今は正当に評価され、その失われた名誉も回復されました。」
「それは何よりでした。そしてもう二度と人類が欲望の肥大という心の慢性疾患に罹(かか)らないようにしなければなりませんね。さもなければまた意味もなく自然が破壊され、地球の生き物たちの多くが絶滅し、人類の多くが意味のない苦難の道を歩まねばならなくなりますからね。」
「まったくそのとおりです。二度とこのような愚かな病に罹ってはなりません。いつまでも、人間として慎(つつし)みも節度もある、本質的な全一調和の道を、みんなで歩いていかなければなりません。」
「小山さん、昔の人たちってみんな重い心の病気にかかっていて大変だったのね。ほんとに可哀想な人たち…。」
「うん、ほんとにそうだね、理沙ちゃん。昔の人たちは本当に可哀想な人たちだったんだね。一方では、先進国といわれる地域の中に、自分だけ楽しめるだけ楽しめれば後はどうなろうとかまわないというような身勝手な生き方をする心の病人が多くいるかと思えば、その影には病んだ社会システムの犠牲となって、それよりもはるかに多くの、幼くして命を失ったり、極貧(ごくひん)の生活にあえぎながらようやく生きながらえているような人々がいたりするような社会がいつまでも続いていたんだね。」
「ほんとに昔の人って馬鹿ねえ、信じられない。みんなが幸せになれる社会が作れるのにそれをしないなんて、サイテ~。」
「いやあ、理沙ちゃん、お恥ずかしい。」
「あっ、小山さんのことじゃないのよ。小山さんはいい人だもの。」
「恐れ入ります、理沙ちゃん。 …だけど、ほんとに愚かだったんですね、物、金、力による自己中心的な欲望のピラミッド社会を作り出した昔の人たちは。社会を自分に都合よく支配したり操作したりするような愚かな人間による不公平な階層社会ではなく、真の精神的リーダーによる公平で平等な社会をこそ作るべきだったのに。利己的な欲望追求の道ではなく、本質的な全一調和の道をこそみんなで歩いていくべきだったのに。」
「ええ、ほんとにそうですわ、小山さん。でも、人間って、この地球生命系の中で初めて高等な意識を持った生き物でしょう。ですから、その意識もほかの生物と比較して高等とはいっても、まだまだ未熟で多くの愚かな間違いを犯すのも無理はないのかも知れませんね。きっと、人類の後に生まれてくる新しい高等生物たちはもっと精神的に成熟しているのではないかしら。でも今は、わたくしたち人間は、まだ十分に発達し切っていないこの未熟な意識で、できるだけがんばっていくしかないのですわ。それでも、人類ってまだまだ捨てたものでもないと思いますわ、今はこれだけの社会を作り上げてきたのですから。」
「なるほど、そのように考えてみればそうですね。何と言っても、今はこんなにすばらしい世界が実現しているのですからね。」
「ええ、本当に…。」

 わたしは、そのように答える美沙さんの顔を見ているうちにふと、美沙さんがどこか仲間由紀恵と松嶋菜々子に似ているように思えてきた。なぜこのまったく雰囲気の違う二人の女優に似ていると思ったのかは、自分でも分からなかったがなんとなくそのように感じたのだった。たぶん、美沙さんの顔の部分部分がそれぞれ仲間由紀恵や松嶋菜々子に似ていたのだろうと思う。あるいは、それはその声の質やどこと無い雰囲気ふんいきのせいだったのかもしれない。わたしは、そう感じながら改めて美沙さんの顔を眺めていた。

「ああ、そうだわ、小山さん、どなたか同じ時代の人で尊敬する方っていらっしゃいますか。」
「尊敬してる人ですか? そうですね、マザー テレサやレイチェル=カーソンや、などでしょうか。」
「その人たちは今も歴史的に高く評価されていますわ。女性のほかに男性で尊敬する人はいませんか。」
「男性ですか。男性ねえ、ああ、そうだ、ラルフ=ネイダーやスリランカのサルボダヤ運動を率いていらっしゃるアリヤラドネさんなんかも尊敬しています。」
「そうですか、そのお二人も、今もなお高く評価されている人たちです。小山さんはやはりとっても本質的な感性を持っていらっしゃいますわ。素敵なことですわ。」
「いやあ、それほどでもありませんよ。」

わたしは嬉しくなって例のように照れ隠しに頭に手を遣っていた。

「ああ、それから今思い出しましたが、作家のサン・テクジュペリや『スモール イズ ビューティフル』を書いたシューマッハーや南アフリカの活動家だったスティーヴ=ビコなんかも尊敬しています。」

 わたしはさらに調子に乗って思いつく名前を次々と挙げていった。

「その人たちだって、やっぱり高く評価されていますよ、小山さん。」
「小山さんて、やっぱりすごいのね、理沙、感心しちゃった!」
「いやあ、理沙ちゃんまで…。」

 わたしは自分の顔が赤くなるのを感じた。そしてまた、この世界では自分が子供のように素直になっているのに気付いてもいた。そして、この時また、この地区に引っ越してきたいという思いが強くなり、こちらで生活する時のためにこの地区の労働環境をもっと詳しく知りたいと思って聞いた。

「山本さん、こちらの労働、あるいはこちらでは公務と呼ばれているらしいですが、公務のことについてもっと詳しく教えていただけませんか。何かルールのようなものとか、注意することとか。もし、こちらに引っ越してくるようなことになれば知っておかなければなりませんから。」
「よろしいですとも。こちらでは、毎年十一月一日に翌年一年間の公務予定表が発表されます。公務の内容や必要人員や期間などです。その予定表を見て、住民は200日分の公務の申請をいたします。月の就労日数は二十日ですから、十か月分の就労申請しんせいをテレポーターで十一月末日までに行うんです。そのとき注意しなければならないのは、一つの職種について一ヶ月から六ヶ月の期間で申請しなければならないということです。一つの職種を一年間通して申請することはできません。ですから、一年で多い人は十種類の職種に、少ない人で二種類の職種に就くことになります。何かのマスターになっている人でも、年間最低一ヶ月から二ヶ月間は自分の専門以外の職種に就かなければなりません。それも毎年違った職種で無ければなりません。これはほかの仕事にも就くことによって専門馬鹿になることを防ぐためなのです。ですから、うちの美沙も、地区改善員になったとしても毎年一種類か二種類のほかの仕事に就かなければならないのです。これはその人の視野を実践を通して広めるのに役立ちます。このように多くの職種に就かせるのは労働を通して上下関係の無い公平・平等を確立するためでもあるのです。このことは、行政についても適用されています。つまり、三十人委員会の委員の任期は二年と決まっていてそれ以上続けることはできないようになっています。そのほかの委員、たとえば水質管理委員や土壌管理委員なども二年ごとに変わりますし、一度なった人は二度となることはありません。全てが公平かつ平等に行われます。このことは、住民が等しく地区の管理に参加していく上で非常に効果があるのです。一人一人がさまざまな観点から地区の運営を評価することができ、またお互いがお互いを理解することも可能になりますから。」
「なるほど、よく考えられていますね。しかし、男女で仕事上の役割分担などは無いのでしょうか。」
「いえ、まったくありません。男女間の差別はまったくありません。あるといえば、老人や病気の人の介護で、本人の希望があれば女性が女性の人の介護をするというようなことはあるのですが、そのような特別の場合を除いて男女間の職業上の差別は一切無いのです。それから、育児なども、女性が男性に代わってもらうこともできるのです。まだ幼い子供を持っている夫婦の場合など、妻の公務の免除を月単位あるいは年単位で夫が代行することも自由にできるのです。」
「へえー、そうなんですか。」
「このように、普通の仕事でも、あるいは管理的な仕事においても、さらには夫婦間においてすら、誰かが何らかの立場や職種などで個人的に固定化することを避け流動的にしているのは、固定化することによって上に立って管理する立場に立つ人たちが、その流れの止まった澱(よど)んだ地位で利己的に腐敗することを未然に防ぐためなのです。そして実際にその効果があるのです。また、固定化することによって必然的に生じてくるアンバランスな対立軸を生まないためでもあるのです。昔の社会システムでは、あらゆる形の組織において、固定化することによって生まれた階級間や立場の違いからさまざまな損得の偏りが生じ、その不公平感からしばしば対立関係が生じて争いが起こったり、あるいはそれぞれの組織や社会的階級の上に立つ人間が精神的に腐敗して、汚職に走ったり公の財産を私物化したりしたような例が数限りなくありましたからねえ。」
「いやあ、まったく、絶対君主制や軍国主義や共産主義にいたるまでの独裁国家から、資本主義から社会主義にいたるまでの民主主義国家まで、官・民を問わず、また組織の大小を問わず、いえ、家庭内においてすらも、その支配層ないし上に立つ者による腐敗堕落行為は日常茶飯事です。まったく、その腐敗振りは本当に眼に余るものがありますよ。」
「人間というものは、よほど精神的に成熟した人でないと、組織の上に立って権力を握にぎったときに腐敗し易やすいものなのです。それは、今でもわたしたちの心の底に潜んでいる根深くてやっかいな傾向です。そのような人間の弱さをわたしたちは、どこにも澱(よど)みが生じない流動的で公平な社会システムを作ることによって未然に防ごうと特別の注意を払っているのです。何事においても予防が最も大切ですからねえ。」
「はい、まったくおっしゃる通りです。」



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「山本さん、もっと公務について詳しく教えていただきたいのですが、今はどのような仕事があるのでしょうか。」
「はい、衣食住に関するあらゆる仕事の他、医療や社会福祉や老人介護、それから教育や通信、林業や環境保護などの仕事、そしてそれらの仕事が円滑に行われているかどうかなどをチェックする管理的な仕事もあります。より具体的には、たとえば衣料に関しては、新しい生地や服地を生産したり、さまざまな既製品をデザインしたり、それを作ったり、またあらゆる世代間で順送りに使われる多くのリサイクル品の管理業務などがあります。食料に関しては、米や野菜や豆類、それから粟(あわ)や稗(ひえ)などの雑穀を作る農作業に関わるあらゆる仕事のほか、漁業や畜産、養鶏の仕事、それから豆腐やコンニャクや果物やパンや菓子やその他漬物やジャムなどのさまざまな食品を作ったり、それらを貯蔵管理したり搬出したりという仕事などもあります。また、住宅に関しては、新築や改築、内装工事、修理、設計、取り壊し、建築資材のリサイクル、廃材処理などに関する多くの仕事があります。また、医療に関しては、あらゆる予防的管理や治療・看護のほか、病理や医薬品開発などの基礎研究などの仕事があります。社会福祉や老人看護について言えば、さまざまな障害を持つにいたった人々の日常的なケアや自立支援、障害者に気配りの行き届いた生活環境の整備や地域社会のサポート体制の確立とその改善にかかわる仕事などがあります。それから、通信に関しては、通信施設の維持管理、地区内のニュース報道や世界中の多岐(たき)にわたる情報の整理・分析など、また、教育に関しては教科別の授業のほか、学校の事務的管理業務や校舎の営繕的(えいぜんてき)な仕事など、それから学校と地域社会との連携業務、教科内容の研究改善などの仕事もあります。そのほか、林業では、植林、伐採、間伐などの山林の管理作業など、また、環境に関しては、公園や市街地や公共施設などの樹木の剪定(せんてい)と整姿(せいし)や日常的な清掃などを含んだ維持管理作業のほか、土壌や水や空気の汚染防止や汚染除去などの仕事があり、そのほか、漁業や交通・運輸、また、鳥や獣たちのサンクチュアリとなっている自然保護区などの監視の仕事などもあります。また、食料に関して付け加えれば、農業用水路の管理や、畑の散水管理などの仕事のほか、食品添加物の検査なども含まれます。それから、あらゆる仕事に関する進行の管理やその内容評価の仕事もあります。ただし、進行管理や内容評価の仕事に就くには、四十歳以上でそれぞれの仕事に習熟している人かマスターの資格を持っている人でなければなりません。このほか、運動施設や娯楽施設などの維持管理や飲食店の運営など数多くの職種があります。このようなさまざまな仕事のリストがテレポーターによって住民に伝えられ、住民は十一月中に来年度の自分の希望の職種と時期をテレポーターで申請します。それを十二月中旬までに地区全体で再調整して、その月の二十日に翌年の仕事のスケジュールが確定することになっています。ここで、また繰り返しになりますが、わたしたちは争いや不幸を招く原因そのものをその根っこのところから取り除くことによって、理想的な社会を築き上げようとしているのです。争いや不幸の原因となるいろいろな形の不平等や不均衡、また、職業や立場の違いなどのほか、思想なども含めたあらゆるものごとの固定化によって生じる、さまざまな形の『 対立軸 』が生まれないような、真に公平で平等な社会システムを作り出す工夫によってです。わたしたちは社会的にあらゆるものを淀(よど)みなく流動させることによって、固定的な対立軸のまったく無い世界、すなわち、国家と国家いう対立軸も無ければ、支配者と被支配者という対立軸も無く、人種と人種、民族と民族という対立軸もなく、資本家と労働者という対立軸も無く、生産者と消費者という対立軸も無く、宗教と宗教という対立軸もない、すべてが一つに融けあって滑らかに流動するような地球社会を実現したいと思っています。そしてこのような固定的対立軸のない社会では住民の間に職業の貴賤といったような観念も生まれてきません。どんな仕事もみんな尊い仕事なのです。みんなでみんなを支え合い、よりいっそう本質の輝く世界を実現しようと努めているのです。すべてのものがすべてのものと緊密に関わり合っている真実世界にはもともと上下貴賤(じょうげきせん)といった差別は存在していないのですから。本質の輝いている世界では、一人の幸せがみんなの幸せになり、ひとりの不幸がみんなの不幸になり、ひとりの悩みがみんなの悩みになり、一人の病がみんなの病になります。そして、みんなで喜び合い、みんなで工夫し合い、みんなで解決し合って生きていきます。そのような世界に生きている人たちの人生には後悔の念というものがありません。みんなの命のエネルギーが正しい方向に向かって使われているからです。わたしたちが働くのは世界の本質が豊かに輝き、自分の本質も世界の本質と共に豊かに輝くためなのです。わたしたちは今、西暦時代の爛熟期(らんじゅくき)におけるように、一人一人がばらばらに、反本質的で自滅的な欲望のまにまを、無自覚に迷走し続けるような放恣(ほうし)な生き方ではなく、みんなが一つの仲睦(なかむつ)まじい家族のようになって、大自然の限りない恵みと今自分がこの世に生かされている無上の僥倖(ぎょうこう)とに感謝しつつ、お互いがお互いの幸せを願いながら、全一的な生を自覚的にそして自由に生きているのです。」
「なるほど、だれも固定的な立場にいなければ、社会的にどんな対立も生じようがないのですね。」
「はい。そして、そのような対立的で固定的な立場を生み出すのは、全体との関係を見失った自己中心的な物の見方なのです。そしてまた、そのような利己的で偏(かたよ)った物の見方を次第に調和の取れた全一的な物の見方に変えていく力が統合的精神にはあるのです。」
「なるほど。 ところで山本さん、この地区にマスターの資格を持った人は今、何人位いらっしゃるんでしょうか。」
「マスターですか? はい、この地区にはマスターがおよそ一万人います。また、その他に準マスターといわれる人が一万五千人ほどいます。ここの現在の人口は二十万人弱ですから、マスターと準マスターを合わせた数は一割を超えます。それだけの数の人たちがそれぞれの分野で、技能だけでなく精神的にも指導的な役割を担っているのです。これだけ多くのマスターや準マスターが揃うのは、生涯教育の学習環境が整っていることと、地域社会全体がお互いに自己を高め合うという自己啓発意識が高いということによっているものと思います。このような社会環境が個人の学習意欲を後押ししてくれるのです。」
「人は環境によって大きく左右されるものですからねえ。」
「はい、まったくその通りなのです。本人の向上心と社会の環境が共に整えばその成果は眼に見えて上がってくるのです。そしていまも毎年、マスターと準マスターが千人単位で増え続けています。このままいけば五年後にはマスターと準マスターの割合が二割を超こえていることでしょう。」
「まったく素晴らしいことですね、感心させられます。ところで、皆さんはきっとお互いに協力し合ってよく働く人たちばかりなんだと思いますが、しかしやっぱり働くばかりでは人生楽しくありません。皆さんは余暇時間をどのように使っていらっしゃるんでしょうか。」
「よくぞ聞いてくださいました。わたしたちは昔の人たちの誰よりも楽しく充実した余暇時間をすごしていますよ。じつは、この地区ではそろそろ年間の公務日数を200日から180日に減らそうかと計画しているのです。これまで積み重ねてきたいろいろな本質的な合理化の工夫によって、一人の年間の公務日数を減らしても地区の運営に差支えがなくなってきたからです。この計画が実施されれば一人あたり年間九ヶ月の公務でよくなり、残りの三ヶ月間はこれまでよりさらに充実した余暇として利用されるようになることでしょう。そうすれば、住民はいままで以上に、自分が本当に打ち込みたいと思うことに打ち込んだり、あるいはゆっくりと世界を巡って観光を楽しみながら世界のいろいろな地区のさまざまな生活や制度や風土を見聞きして見聞を広げたりすることもできます。そしてその経験がまたこの地区で働くときに地区の改善に役立つことにもなるのです。また、多くの人はさまざまな芸術的創作に励んだり、さまざまな趣味に打ち込んだり、ボランティアに励んだり、思いっきり自然に親しんだり、科学的研究や技術的発明やその改良に打ち込んだり、そのほか、さまざまなマスターになるための学習に励んだり、スポーツに汗を流したりなどと、より一層充実した余暇を過ごすことができます。このように余暇は地球社会の多くの人たちと交流したり、自分の視野を広げたり、能力や精神性を高めたりするためのまたとない機会を住民に与えているのです。それから、カラオケ喫茶や居酒屋で歌やお酒やおしゃべりを楽しんでお互いの親睦を深め合う人たちも多いのです。」
「皆さんは仕事と余暇のバランスもうまくとっていらっしゃるんですね。」
「はい、すべては住民の一人一人がその本質をより豊かに、またより充実したものにできるようにと工夫改善が積み重ねられているのです。いまや、地球社会は本質至上主義に基づく本質統合社会になりましたから、すべては欲望の自由追求のためではなく、それぞれ一人一人の本質の自由展開のために統合管理されているのです。そしてこのような本質統合社会であればこそ地区ごとに多くの精神的指導者も輩出してきているのです。わたしたちは皆、人生で最も大切なことは、自分の生命活動の本質を知り、その本質を生きることにあると考えています。ですから、昔の西暦時代のように、欲望肥大症候群に感染したかのようにひたすら個人的な生活の利便性や快適性を求め、享楽的な人生を生きるというような反本質的文明はもう生まれようがないのです。」
「はあ、そうですか。まったく驚くばかりです、本当に感心させられます。」

 この時、モニターの中のセレステさんの平均律第一巻の演奏が終わりに近づきつつあった。わたしはあらためてモニターに眼を遣り、耳を澄ました。やがて平均率の演奏が終わり、続いてセレステさん自身が作曲したという小品の演奏に移った。その作品は『愛の祈り』と題されていた。その曲調はモーツアルト的な旋律とバッハ的な旋律が交錯(こうさく)する中に、ところどころスクリャービン的な神秘的和声が散りばめられていて、聞くものの心が静かに慰められ暖められ浄化されるようなものだった。わたしは初めて耳にするセレステさんの自作自演の『愛の祈り』に深く心を動かされていた。

「妻の演奏も終わったようですね。」
「本当に素敵すてきな演奏でした。それに最後の、ご自分で作曲なさった作品にも心動かされました。まったく、皆さんはすばらしい人たちですね。」
「いやいや、わたしたちなどまだまだですよ、これからずっと努力し続けなければなりません。」
「ところで、セレステさんの作品の題名なんですが、『愛の祈り』には何か具体的な意味はあるのでしょうか、言葉で表せるようなテーマのようなものが。セレステさんからなにかお聞きでしょうか。」
「わたくし一度そのことについて母の口から聞いたことがありますわ。母の話では、愛の祈りというのは、PLEROMA(プレローマ)と一つになりたいという願いを歌ったものだということです。PLEROMAというのは先ほども『無のかなたへの祈り』と名づけられた小品の説明のところでお話したように、この世の一切万象の源である完全統合場(ば)ないしはその状態のことなのですが、そのPLEROMAではすべてのものが一体であり、そこにはいかなる対立もありません。ところで、愛は一つになろうとするはたらきであり、また、常に変わることなく一つであり続けようとする願いでもあるです。つまり、あらゆる対立や差別を超えて一つになろうとする已(や)むに已まれぬ永遠のいのちの促(うなが)しなのです。ということは、すべてのものが完全に一つに統合されたPLEROMAは愛そのものの充満の場ということになります。つまり、PLEROMAが表わしているものはこの世の本質の充満であり、最高次の精神の充満であり、そしてあらゆるものと一体化しようとする愛そのものの充満でもあるのです。そしてそのようなPLEROMAは結局のところ正義(善)の充満でもあります。つまり、本質も精神(智慧)も愛も正義(善)もすべてはPLEROMAにおいては一つなのです。そのようなPLEROMAとの一体化を夢見る心の切せつなる祈りをピアノを通して表してみたかったのだということなのです。たぶん母の気持ちの中では、愛はこの世界の本質であり智慧であり正義(善)でもあるという確信があり、その愛に代表させてこの世の真実を生きていきたいという願いが込められているのだと思います。わたくし、これはとっても母らしい考え方だと思いますわ。結局、愛はまったく対立のない理想的な社会を実現していくための原動力なのですから、その愛を生きることを通して理想的な家庭を作り、理想的な地域社会を作り、理想的な地球社会を作っていきたいという祈りを込めているのでしょう。」
「いやあ、これはわたしにとっては初耳です。美沙、お母さんはわたしにはこれまで一度もそんな話をしてくれなかったよ。」
「お父さん、まあそんなに拗(すね)ないでね。この話を聞いたのは、わたしがお母さんにピアノのレッスンを受けている時だったのよ。そのレッスンの流れの中でお母さんがなんとなく話してくれたことなの。ひょっとして、お母さん自身この話をしたことなど今は忘れているのかもしれないわ。」
「まあ、わたしはピアノも弾けないし、音楽のこともあまりよく分からないから、それでお母さん話してくれなかったんだね、きっと。だけど、あの曲にそんなテーマがあったとはね。これからあの曲を聴くときはきっとこれまでとは違った風に聞こえてくるんだろうな。しかし、お母さんもなかなか遣るね、見直したよ。」
「お母さんもうそろそろ帰ってくるかな。理沙、ほんとにお腹空いちゃった~。」
「あらもうこんな時間、理沙のお腹が空くのも無理ないわ。そろそろ、食事の支度に取り掛かりましょう、お母さんももうすぐ帰ってくるはずだから。」
「そうしましょう、お姉ちゃん。理沙も手伝うから。」

二人はさっそく台所へ入っていった。
わたしは続けて山本さんに尋たずねた。

「山本さん、先ほど聞くのを忘れてしまったのですが、男女間に、それから職業間に賃金の格差はないのでしょうか。たとえば、マスターとそうでない人との間や、妻帯者と独身者との間や、それから清掃員と管理的職業の人との間などに賃金の差別はないのでしょうか?」
「まったくありません。三十人委員会の委員と女性の清掃員との間にも、大工さんや庭師さんなどのマスターと若いウエートレスさんとの間にも賃金格差はまったく無いのです、みな一律に20,000ロータス支給されるのです。」
「そうですか、うーん、驚きました。本当に驚きました。」
「わたしたちは物質的にいかなる不公平も認めていないのです。わたしたちはみな、生活するに十分な賃金を受け取っていながらそれ以上を望み、それ以上を浪費したがる人間を精神的に未成熟な人間として蔑(さげす)んでいるので、賃金の多寡(たか)でもめたりすることもないのです。また、それぞれの仕事や立場が毎月、毎年、変わるのですから賃金格差そのものがその意味を失ってしまうのです。職業ごとに、また、立場ごとに賃金を設定すればなおさらややこしいことになって地域社会は混乱するばかりですからね。」



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 ふと気がつくと、室内はいつから点いていたのか自動照明装置によると思われる天井一面からの光によって明るくなっていたが、戸外はもう日ざしが陰り始めていた。わたしは時間の経過を感じると同時ににわかに尿意を催(もよお)して、山本さんにその場所を教えてもらってトイレを拝借した。用を足してリビングに戻ってくると、それを待っていたかのように山本さんがソファーから立ち上がり、わたしを玄関脇の洋間に案内して言った。

「小山さん、今日はこの部屋でお泊りいただきます。この壁にベッドがはめ込まれていますので、後でそれを引き出して、それからその上の戸棚から布団を出して敷いて、ここでお休みいただきます。」

 そう言いながら、山本さんはその部屋の反対側へ行き、広いガラス戸のカーテンを一気に引き開けた。するとわたしの目の前に、室内の明かりに照らし出された眼にも彩(あや)な花舞台が広がった。まったく思いがけないその夢のような世界にわたしは思わず驚きの声をあげてしまった。小さい色鮮やかな熱帯魚がたくさん泳いでいる温室の池の表面には、のこぎり型の切れ目のある丸い大きな睡蓮の浮き葉が拡がり、その浮葉の間から伸びた茎の先端には濃紅色とピンクがかった紅色と純白色の大輪の睡蓮の花が鮮やかに咲いていた。そして、その紅白三種類のあでやかな睡蓮の花を脇から囲かこむようにして、温室の透明な広いガラス戸の向かい側と左側の二面にわたって上下リズミカルに配置されたさまざまな種類の、これまたあでやかなカトレヤやデンドロビューム、パフィオにシンビジューム、マスデバリアにエビネ、ウチョウランに胡蝶蘭(こちょうらん)といった大きさも色形もさまざまなランの花々が咲き誇っているのだった。熱帯魚が泳ぐ池の水の薄い青色と、睡蓮の浮葉の濃い緑と、大輪の睡蓮の花のあざやかな紅色に純白、それに加えて大きさも形もさまざまに咲き誇ったランの花々の華やかな色彩のすべてが、たそがれどきの戸外の半透明の空色に溶け込んで、この世のものとも思えない妖(あや)しいまでに美しい情景をかもし出しているのだった。

「なんという美しさでしょう、山本さん。これが、あの玄関脇にあった温室でしょうか。驚きました、この世にこんな美しい世界があるとは夢にも思ってみませんでした。そしてこの温室はわたしが思っていたよりもずっと広いのですね。」

山本さんはわたしの驚いた様子に満足げであった。

「はい、あの温室なのです、小山さん。今は夜咲きの睡蓮の花が咲いていますので一日の中でももっとも見栄えのする時間帯なのです。こちらの紅い花はミセス エミリー ハッチングスで、あちらの紅い花はレッド フレアーです。それから、この真ん中の一番大きな白い花はデンタータ マグニフィカです。そのほかの睡蓮は昼咲きの睡蓮なので今はその花を閉じています。」
「ほんとに立派な、そしてあでやかな花ですね…。山本さんが睡蓮の花をお好きになられるのも無理ないですね。毎日こんなきれいな花を眺めることができるとはうらやましい限りです。大好きなトンボとめだかと睡蓮と、さらにはランの花ですか。それに美しい奥様ときれいでかわいい娘さんたちにも囲まれて、もう人生、何も言うことはありませんね。」
「はあ、まあ、そうですかね。まあ、考えてみれば、ほんとに今は恵まれている毎日だと言えますね。」
「それにしても山本さん、この温室はほとんど芸術的な美しさですね。ほんとにすばらしいです、奥様のピアノにも負けないくらいすばらしい芸術ですよ、これは。そして今晩、こんな美しい花たちに囲まれた部屋で寝ることができるとはわたしも幸せ者です。きっと今夜はすばらしい夢を見ることでしょう。いえ、もうすでに現(うつつ)の今が夢のようなのですから寝床の中では夢のまた夢を見ることになるのでしょうか?」
「ははははは~。いや、そんなに喜んでいただいて、わたしもお見せした甲斐があるというものです。さあ、じゃ、小山さん、またリビングの方へ参りましょうか。」
「はい。」

 リビングに戻ると、台所の方からおいしそうな匂いが漂よってきた。
 山本さんはソファーに座ると、食事時までニュースでも見ていましょう、と言ってモニターを操作した。

「これは、三十人委員会が制作、監修したこの地区のニュースです。毎日二十四時間放送されているものです。」

 そのニュースを見ていると、西暦世界ではほとんど毎日メディアを賑わしていた争いごとや刑事事件、あるいは政財界などの腐敗堕落振り、また男女間の痴情(ちじょう)事件や青少年犯罪などというものはなく、誰がどのような地区環境の改善案を出したとか、以前に住民の意見を求めたさまざまな改善案に対する実施の是非の投票結果の発表、あるいは住民のさまざまなボランティア活動や芸術作品の紹介、それからさまざまな趣味の会などの活動やその会員の手になる作品の特別発表会の場所や日時の紹介などが続いていた。

「ニュースはこのほか、四十人委員会から百人委員会までの各委員会のものや、個人的なものからさまざまな団体のものまでテレポーターを通して無数に見ることができます。意見や情報や作品などの発信は誰もが自由にできるのです。」

そのとき、理沙が台所から出てきて言った。

「小山さん、今晩のおかずは肉じゃがよ。小山さんも肉じゃが好きでしょう。」
「ああ、この匂いは肉じゃがのにおいだったんですね。もちろん、大好きですよ。ほんとにおいしそうな匂いですね。」
「もう少し待っててね、お母さんも、もうすぐ帰ってくるから。」
「はい。」
「あー~、ほんとにお母さん早く帰ってくればいいのに。」
「ああ、そうだ、理沙ちゃん。理沙ちゃんは学校の勉強以外ではどんなことが好きなのかな?」
「勉強以外?勉強以外では、カラオケで歌ったり、友達と近くの公園や山里を歩いたり、いろんなところへ日帰り旅行したりすることなんか好きよ。交通費が掛からないから学校が休みの日は日帰りで行けるところなら気軽にどこにでも行くわ。だけど、お父さんの言いつけで三人以上の友達と一緒でなければいけないけどね。もう、北海道から九州まで何十ヵ所も行ってきたわ。朝早く出れば北海道の端まで行ってこれるのよ。」
「ええ?日帰りで北海道の先端まで行ってこれるの?」
「ええ。リニア・モーター・カーで行けば速いもの。」
「ふーん、ほんとに便利だね。」
「ええ。一つ一つの地区ごとに自然の景色も家や町並みもまるで違うからほんとに面白いし、ためにもなるのよ。」
「えっ?今は日本はどこに行ってもみんな同じような風景や町並みじゃないんだ。」
「ああ、小山さん、今は昔のように中央官庁の規制などといったものも無いので、地区ごとに自由に環境計画を立てて実行していますから、それぞれが特徴のある風土景観をつくり上げているんですよ。」
「ああ、なるほど、もう国というものも無いのでしたね。あっ、そうだ、ちょっと話は変わりますが、念のためお聞きするんですが、今はどこにも私有地と呼ばれるものは無いのでしょうか、少しも、一平米すら?」
「はい、地球上どこにも私有地といったものはありません。すべては地区ごとの共用地であり地球社会全体の共用地なのです。さらに言ってみれば、この地球上のすべてのものは天からの一時的な借り物なのです。ですから、この地球の自然はわたしたち人間だけのものでもありませんし、そして当然、誰一人として特権を持っている人もいないのです。みんな、永遠本質の前に平等なのです。」
「なるほど、そうでしたね。まったくそのあたりは例外もなく、ほんとに徹底しているのですね。」
「はい、その通りです。そして、このことに不満を抱く人も今はほとんどいなくなりました。みんなそれが当たり前になってしまったのです。」
「そうですか。」
「ああ、そうだ、小山さん。それからわたし季節ごとのお祭りも大好きよ。とくに夏祭りが好き。蝶々のゆかたを着て、みんなと踊れるから。」
「蝶々のゆかたか。理沙ちゃんきっと似合だろうな。理沙ちゃんかわいいから。」
「うふふ、そのうち見せてあげるね、小山さん。」
「たのしみだな。」

 そのとき、山本さんのテレポーターが鳴った。セレステさんからの電話連絡だった。

「家内があと十分くらいで家に戻るそうです。」
「ちょうどよかったわ。もういつでも夕ご飯にできるわ。」

 美沙さんが台所から出てきて言った。

「じゃ、家内が帰ってくるまであとしばらく待っていましょうか。」
「あっ、そうだ、山本さん、ちょっとお尋ねしにくいことなのですが、奥さんのセレステさんはアングロ=サクソン系の方なのでしょうか。」
「はい、その通りです。少しラテン系の血も混じっているようですが、ほとんどアングロ=サクソン系といってもいいでしょうね。それが何か?」
「はい、いえ、あの、まあ、その、先ほどの美沙さんの歴史の話の中で、今は人種的にはアングロ=サクソンを中心としたヨーロッパ人種が最も反本質的な文明を生み出した人種として批判されていると言っていらっしゃったように思うんですが、それで、奥様がそのアングロ=サクソン系の人だったら少し困るんではないかと思ったものですから。」
「ははははは、小山さんはそんなことを気にしていらっしゃったのですか。それはあくまでも西暦時代の話であって、このロータス時代にあっては、人種も宗教も文明も、過去のいきさつはすべて十分な反省と、より高い精神的洞察によって本質的に乗り超えられてしまっていて、今やみんなが一つに調和した世界を作り上げているんですよ。ですから、今ではわたしたちは過去のことはすべて、まだ精神的に未熟なご先祖たちが犯した愚かなエピソードくらいにしか思っていないのです。そして、もう二度と犯してはならない愚行として自らへの戒めとしているのです。今じゃ、人種的な偏見やこだわりを持っている人などいないんですよ。昔のアングロ=サクソン系の人たちが悪いのであれば、西洋かぶれして同じように振舞っていたわたしたち日本人だって同じくらい悪いということになりますからね。小山さん、今やまったく新しい世界がまったく新しい歴史を刻んでいるんですよ。それから、どの人種の人間として生まれたかはその人自身に少しも責任は無いのですから。ただその人がどのようにその人生を生きたかだけが問題なのです。」
「ああ、なるほど。そうですよね。ほんとうに今はまったく新しい時代なんですよね。人種的なわだかまりの無い、表面的な人間ではなく本質的な人間同士が交わっている世界なんですよね。」
「小山さんは、気にしすぎなのよ。みんな仲良く暮くらしているのよ。」
「あはははは、ほんとにそうだよね、ぼくは何でも気にしすぎる性質(たち)だから。」
「小山さん、ごめんなさい。わたくしの言葉が足りなくて余計な気を使わせてしまったみたいで。本当にわたくしってまだまだ心遣いが足りなくて。」
「いえ、美沙さんは少しも悪くないですよ。みんなわたしが気にし過ぎるからいけないんです。それと、もう少し常識を働かせれば分かりそうなこともなかなかそこまで頭が回らなくて…」
「いえ、小山さんはここの事情にまだ慣れていらっしゃらないのですから無理もありませんわ。わたくしがもう少し気を利きかせてさえいればよけいなお気遣いなさらなくてもすんだ筈ですもの。」
「いやあ、どうも恐れ入ります。わたしもこちらに引っ越してくることになるかもしれないと思うと、ついつい、いろんなことが気になりまして。」
「小山さん、もう何にも心配することなんか無いんだからね。もう気にしちゃだめ。みんな仲良く暮くらしているんだから。」
「はい、分かりました。ああ、そうだ、もう一つ、ずっと気になっていたんですが、ここでは火事だとか、あるいはひとりで住んでいる人などが心臓発作に襲われたときなどの万が一の緊急事態の時はどうしていらっしゃるんでしょうか。」
「そのときは、自分のテレポーターの緊急ボタンを押せばもっとも近くの五軒の家の人たちに連絡が行くようになっていますからみんなすぐに駆けつけてきて適切な処置をしてくれます。それでも手に負えなくて、さらに人手が必要なら三十人委員会の方に連絡することになっています。この地区では住民全体がそれぞれ近隣の五軒の家の人たちと緊急連絡網で結ばれ合っているのです。まあ、に緊きん急事態は発生しませんが、それでも何かあればみんなが駆けつけてくれるという安心感がありますから、それだけでも助かります。それにその緊急連絡網で結ばれた人たちの間には特別の連帯感のようなものも生まれてくるのですよ。」
「緊急連絡網ですか。」
「はい、緊急連絡網です。以前は十軒だったんですが、今は五軒に減らされました。余り多くの人が来ても意味が無いということになりまして。何事にも適度というものがありますからね。」
「はい、そうですね。あっと、それからもう一つ、選挙のことなんですが、ここではテレポーターで選挙の投票をおこなっていらっしゃるということでしたが、それはどのような選挙でその投票率は何パーセント位なんでしょうか。」
「住民の直接選挙は三十人委員会の委員を選ぶときと、その三十人委員会から提案された懸案(けんあん)事項に対する賛否の投票ぐらいです。三十人委員会委員の任期は二年で、それぞれ一年毎に交互に改選されます。つまり、毎年半数の十五人ずつ改選されるのです。投票率は毎回ほとんど百パーセントです。投票権のある人が投票することは当然の義務ですし、わたしたちは皆この地区を少しでもよくしたいと思っていますので、日ごろから次の委員の候補者を心に思い描きながら次の投票日に向けて準備していますから。」
「皆さんそんなに熱心なんですか。そして皆さん一人一人が真の意味で精神的に自立した大人なのですね。それに比べると昔の人はまるで子供のように未熟でした。投票率も信じられないくらい低かったですからね。もう半ばあきらめていて、選挙に、ということはつまり政治に何も期待していなかったのですから。政治制度も政治家も選挙民もみんないい加減だったのです。」
「まあ、その反省の上に立って現在の社会が再構築されたのですからね。これは当然といえば当然なのですが…。 ああ、それから、三十人委員会以外の四十人委員会から百人委員会までの委員は、それぞれその下部の委員会から選抜で送り込まれます。たとえば、四十人委員会の場合では、十地区ある三十人委員会からそれぞれ四人の委員が選抜されて四十人委員会を構成して統合区全体の問題について討議しあいます。その上の地方の場合も大統合地区の場合も同じようにして選ばれているのです。」
「ああ、そうなんですか。」

 そのとき玄関先に人の声がした。と同時に、山本さんと二人の姉妹の三人が打ち揃って玄関先へと出迎えに行き、わたし一人が後に取り残されてしまった。そして、玄関先で一騒ぎあってまもなく、その三人と一緒にセレステさんが部屋に入ってこられた。



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「小山さん、家内のセレステです。セレステ、こちらが今お話した小山さん、はるばる西暦の遠い時代からこちらにいらっしゃったんだよ。」
「はじめまして、小山さん。よくいらっしてくださいました。わたくしセレステです。どうぞごゆっくりなさっていってくださいね。」
「小山です。今日は突然やって来てご迷惑をおかけしています。」
「いいえ、ちっともかまいませんのよ、大歓迎ですわ。」

 セレステさんは、まだかすかに英語訛りのアクセントが残っているとはいうものの、非常にきれいな日本語でわたしを迎えてくださった。

「ごめんなさいね。みなさんをお待たせしてしまって。娘たちが用意してくれたようなので、さっそく夕食にいたしましょうか。わたくしちょっと失礼して、二階ですぐに着替えてきますから。」
「うん、早く食べましょう。さあ、皆さん、こちらの食堂に来てください。」

 台所とカウンター越しにつながった食堂に入ると、そこにはもう食卓の上に料理が用意されていてすぐにでも食べられる状態になっていた。

「もうきれいに用意ができていたんだね。意外に早かったね。」
「お姉ちゃんと二人だから、あっという間に用意ができたのよ。」
「いえ、もうほとんどお母さんが準備しておいてくれたから、後はちょっと手を加えるだけでよかったのよ。」
「今日は肉じゃがと、ほうれん草のおひたしと鮎の塩焼きよ。」
「えっ、鮎の塩焼きまであるんですか。すごいごちそうだなあ。こちらでは鮎はたくさん取れるんでしょうか?」
「はい、ここでは鮎はどの川にもたくさん泳いでいます。水もきれいになって、そのほかのいろんな魚もたくさん泳いでいますよ。」
「驚きですね。明日はそんな川の様子もぜひ見てみたいものですね。」
「もちろんお見せいたしますわ。この地区は水に関してはちょっとしたものですからね。どうぞお楽しみに待っててくださいね。」
「小山さん、明日はいろんなところをいっぱい見せてあげるからね。見ればきっと、いろんな心配事やなんかもすっかりなくなってしまうから。」
「明日がますます楽しみになってきたなあ。」
「ふふ、わたしもよ。今からなんだかうきうきワクワクするわ。」
「さあ、皆さん席についてください。小山さんはこちらのお席にどうぞ。母もすぐに下りて来ると思いますから、もう、ご飯もよそいましょう。」
「じゃ、失礼します。ああ、ほんとにおいしそうな匂いだなあ、この肉じゃが。」
「ほんとにおいしいわよ、小山さん。さっきわたし少しつまみ食いしてみたから分かるもん。」
「理沙はもう、まったく。 どうにかなりませんかね、そのお行儀の良さ、は。」

理沙は山本さんにそう言われてぺろりと舌を出した。

「まあ、中学生はみんなこんなものですよ。かわいいじゃないですか。」
「小山さんも、理沙をあまり甘やかさないでくださいね。今のうちにしっかり躾けておかないと大きくなってからほんとに人に笑われてしまいますから。」
「いえ、理沙ちゃんだって大きくなればきっと立派な娘さんに成長なさいますよ。何も心配はいりませんよ。ねえ、理沙ちゃん。」
「そうよ、お父さん。もっとあなたの娘を信じなさい!」
「まったく、調子がいいんだから。」
「何が調子がいいんですか、あなた?」
「ああ、お前か。 いやね、理沙が相変わらずなのでね。」
「理沙がまた、何かお行儀の悪いことをしましたか。」
「そうなんだよ。」
「理沙、いけませんよ、お行儀よくしなくっちゃ。」
「はーい。」
「じゃあ、ほんとにお待たせしました。それではお食事にいたしましょうか。」
「そうだね。それでは、いただきます。小山さんも、どうぞ、召し上がってください。」
「はい、それでは、お言葉に甘えていただきます。」
「いただきま~す。」
「いただきます。」
「ああ、おいしい。ほんとにおいしいわ。」
「いやあ、このご飯もおいしいご飯ですね。おかずが無くても、ご飯だけでも十分食べられますね。味も香りもなんともいえないおいしさですね~。」
「そうですか。このお米はこの地区みんなで工夫に工夫を重ねて、丹精込めて作ったお米ですからね。それに無農薬ですしね。」
「いやあ、すばらしいです。それに、この肉じゃがもほうれん草のおひたしも鮎の塩焼きもみんなほんとに、ほんとに、おいしいですね。ぼくは幸せだなあ。」
「ほほほほほ、小山さんってなんて面白い人、まるで子供みたいですね。」
「あっ、はい、ここにいるとなぜか子供のころに戻ったような素直な気持ちになれるんですよ。」
「それはとってもいいことですわ。 How wonderful!」
「あっ、お母さんが英語しゃべってる。」
「うふっ、小山さんを見ているとわたくしまで幸せな気持ちになりますわ。あなただって嬉しそうよ。」
「あはははは、いやね、今日は小山さんのお陰でわたしも不思議な体験をさせてもらっているからね。こちらの地区のことなども詳しくお話してるんだよ。」
「それより、お母さん、コンサートのほうはどうだったの?」
「とってもよかったわよ。みなさんとっても喜んでくださったわ。」
「谷川さん、例のグリーグの『ソルヴェイグの歌』歌った?」
「ええ、もちろんお歌いになったわよ。そのほか、ヴェルディの椿姫から『花より花へ』、アイーダから『おお、わが故郷』それからカンツォーネや日本のわらべ歌などもお歌いになったのよ。」
「それじゃ、宮田さんは『G線上のアリア』弾いた?」
「いえ、今日は宮田さん、わたくしと一緒にベートーヴェンの『クロイツェル』を弾いたのよ。とっても評判がよかったわ。」
「お母さんは、『 平均率へいきんりつクラヴィア曲集 』弾いたんでしょう?」
「ええ、弾きましたよ。今日は第一巻の5番をね。」
「ねえ、今日、小山さんに、十年前に撮ったあのお母さんのピアノ演奏を聴いていただいたのよ。そしたらね、小山さん、『 とてもピュアで、とてもナチュラルで、とてもスピリチュアルな演奏ですね、本当にいつまで聴いていても飽きのこない、心に優しい演奏ですね、だって。』」
「あら、そんなことがあったんですか。とても嬉しいですわ、そう言っていただいて。」
「それから、お母さんとお姉ちゃんの演奏がとっても似てるって。お姉ちゃんの演奏が終わった後、小山さん、すごいって叫んでいたのよ。」
「いやあ、お恥ずかしいです。しかし、じっさい、お二人ともすばらしいピアニストですからね。わたしが感心したのも少しも不思議じゃないんです。」
「それから、お母さんの作曲した『 愛の祈り 』にも心が動かされたって。それで、『 愛の祈り 』のテーマについて教えて欲しいっていうことから、お姉ちゃんが、昔ピアノのレッスンを受けているときにお母さんから聞いたことがあるといって、その曲に込められた願いのことなんかお話したのよ。そうしたら、お父さんがそれは初耳だとか何とか言ってちょっと拗(す)ねたのよ。ね、お父~さん!」
「いや、実際あの曲にそんな深い意味が隠されていたなんて知らなかったからさ、それで感心して、そう言ったのさ。」
「わたくし何て美沙に話したのかしらね。」
「お母さんの話では、あの歌は、この世のすべての源(みなもと)であるPLEROMA(プレローマ)と一つになりたいという願いを込めて作曲したのだということだったわ。それから、これからはわたくし自身の推測も交(まじ)えてだけど、世界の本質が充満し、最も高い次元の精神が充満し、善そのものの働きでもあり、また、結局は、すべてのものと一体化しようとする愛そのものが完全な状態で充満している、そんな全(まった)き一(いつ)なるPLEROMAのすべての働きを『 愛 』に代表させて生きていくのが多分、母の本当の願いだと思う、というようなことを話したのよ。わたくし間違っていたかしら?」
「いえ、多分その時そのようなことを話したのでしょうね、わたくし。今もそれに近い気持ちで生きているつもりなのよ、お母さんは。まあ、実際のところはそうなっているかどうか自信はありませんけどもね。」
「まあ、しかし、あの曲にそんな願いが込められていたのだと思って改めて頭の中で聴きなおしてみると、今までとは違った風にも聞こえてくるようだね。あの曲全体が新しい本当のいのちを吹き込まれたみたいに生き生きとしてくるようだよ。」
「あら、まあ、そう? それなら嬉しいんだけど…」
「しかし、本当にうらやましいことです。そんな風に自分の本当の思いをピアノ曲で表現することができて、それをご自身で自由にお弾きになれることが。」
「はい、わたくしもピアノを弾けることが本当に楽しいんです。小さい頃から母に教わって身につけたものが今のわたくしの大きな喜びとなっているんです。」
「そして、その喜びを地区の皆さんにもお分けしていらっしゃるんですね、ピアノを教えたり、ボランタリーの演奏活動などをなさったりしながら。」
「はい、まあ、そういうことでしょうか。仲の良い演奏仲間もいますし、聴いてくださる方もいらっしゃいますので、大変幸せですわ。」
「お母さん、明日、わたしとお姉ちゃんと二人で、小山さんにこの地区の案内をするのよ。いろんなところをお見せするのよ。」
「おや、そうなの。二人でご案内できるかねえ。わたくしも一緒に行ければいいんだけど、明日はおじいさんの家に行かなければならないから行けないわねえ。」
「二人で大丈夫よ。心配しなくてもいいわよ、ねえ、お姉ちゃん。それから、明日はわたしたちもおじいちゃんの家に寄るかもしれないからね。」
「ええ、二人で十分にご案内できるから心配はいらないわ、お母さん。」
「まあ、美沙がいるから大丈夫だとは思うけど。」
「理沙もいるから大丈夫なの。」
「そうね、理沙もいるから大丈夫ね。」
「小山さん、お味噌汁のおかわりいかがですか。」
「はい、いただきます。この豆腐とワカメのお味噌汁もおいしいですね。このおしんこも、もう、何もかもみんなおいしいですね。どれだけでも食べられます。」
「どうぞ、いっぱい召し上がってくださいね。」
「はい、すみません。ありがとうございます。」
「あーあ、早く明日が来ないかなあ。小山さんと一緒にいろんなところ見て回るのきっと楽しいだろうな。」
「わたしもほんとに楽しみです。今日はもうずっと驚きの連続でしたが、明日もまたそうなるのでしょうね。」
「うふふ、早くまた小山さんの驚く顔が見たいなあ。小山さん、面白いからわたしだ~い好き。」
「わたしも理沙ちゃんが大好きですよ。明日はどんな服を着てくるのかなあ。」
「それはまだ秘密よ。ほんとは、わたしもまだどれにするか決めていないのよ。」
「きっと、かわいいだろうな。」
「うふっ。」
「ああ、そうだ、さきほど、ご主人に温室を見せていただいたんですが、すばらしかったです。あんな美しい温室を見たのは生まれて初めてです。夜咲きの赤と白の熱帯睡蓮の花と、いろんな種類のランの花がほんとに美事に咲いていて、それが睡蓮の浮き葉の濃い緑色や透明な水やその中を泳いでいる色鮮やかな熱帯魚や、さらにはそのすべてがたそがれ時の辺りの淡い空色に融け込んでほんとに美しい一枚の絵のようでした。」
「あの温室は主人の一番のご自慢で、主人も暇さえあれば水温の管理や花の手入れに精を出しているんですよ。わたくしたちもあの温室を見るのが大好きなんです。ご近所の人たちや同好の人たちもよく見にいらっしゃいますのよ。」
「お父さんはわたしたちよりあの温室のことを大事にしてるのよ。」
「そんなことは無いよ。お前たちだって同じくらい可愛いさ。」
「やっぱりね、わたしたち温室並みなんだ。」
「いや、おまえたちが一番可愛いさ、そんなことは分かりきっていることじゃないか。お父さん、お前たちがいなけりゃ生きていけないさ。」
「ほんと~?お父さん。」
「本当さ。当たり前じゃないか。」
「まあ、皆さん本当に仲がいいですね。」
「まあ、みんな言いたいことを言い合ってます。どこの家庭でもみんなこんなものなんでしょうか。」
「見ていて微笑ましいです。わたしもこんな家庭が持てたらなあと思います。」
「きっと、お持ちになれますよ、小山さんなら。」
「そうだ、小山さん、わたしがお嫁さんになってあげようか。」
「そのお気持ちはほんとに嬉しいんだけど、理沙ちゃんはまだ中学二年生だからなあ。年の差もあるし。」
「もう少し待てば理沙もすぐ大人になって結婚できるようになるわよ。それに、年の差なんてちっとも気にすることなんか無いわ。」
「うん、そうだね。まあ、だけど、しばらくちょっと考えさせていただけますか。」
「ええ、いいわよ。よく考えておいてね。」
「まあ、理沙ったら、相変らずね。ごめんなさいね、小山さん、理沙がまだ子供で言いたい放題で。」
「わたしもう子供じゃないも~ん。」
「はいはい、もうわかりましたよ、理沙。」
「ところで、奥さん、わたしもう少し奥さんの作曲された『 愛の祈り 』のテーマについてお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか。」
「はい、どんなことでしょうか。」
「はい、じつは美沙さんからはじめて『 愛の祈り 』に込められている願いについてお聞きしたときになぜか、これこそがこのロータス世界をその根底から突き動かしている中心的な考えであり、その精神的な原動力なのだと直感したのです。それで、そのことについてより具体的にいろいろお聞きしたいと思ったのです。そうすればこのロータス世界がわたしにも本当に分かるようになるだろうと思ったからなのです。」



     15




「わたくしには小山さんが具体的にどのようなことをお考えになってそう言っていらっしゃるのかよくは分からないのですが。」
「ああ、はい、わたしの考えでは、セレステさんが毎日気をつけていらっしゃること、たとえば自分に対する戒めとか、何を一番優先していらっしゃるかとか、何に一番価値があると考えていらっしゃるのかとか、なにかそのようなことをお聞かせいただければ、このロータス世界のことが日常生活の中で具体的なイメージとしてつかめてくるんじゃないかと思っているんですが。」
「それではわたくしが日ごろ気を付けていることとか大事にしていることなどをお話すればいいのですね。」
「はい、そうしていただければ、大変嬉しいのですが。」
「はい、それではうまくお話できるかどうか分かりませんけどお話してみますわ。そうですねえ、まずは、自分自身に対する戒(いまし)めのようなことからお話しましょうか。わたくしが一番気を付けたいと日ごろ考えているのは、自分の心の世界を狭くしないことでしょうか。ついついわたくしたちは自分の心の中の世界を自分の都合に合わせた狭いものにしがちですからね。そしていろんな人たちを、たとえば家族やそのほかの親族や友達といったようなわたくしたちに近くて親しい関係にある人たちを、自分のその狭い心の世界に無理やり合わせるように仕向けたり、いろいろ批評してみたり批判してみたり、さらには非難したりすらいたします。批評や批判が悪いというのではなく、その批評や批判の基準となっている世界観が問題なのです。その基準が、本当に客観的で、さらには全一的な本質に根ざしたものであればいいのですが、さも無い場合には、その批評や批判は単に自分を利するための道具や手段にしか過ぎないものになってしまいます。そして、そのような行為からさまざまな形のつまらない対立や軋轢(あつれき)や争いが生まれてくることにもなってしまいます。わたくしは自分自身がそんなことの原因にだけはなりたくないのです。まあ、結局わたくし、心の狭い利己主義にだけは陥(おち)いらないようにと心がけているつもりなのです。つまり、自分の言葉や行いが自己中心的な動機から出てきたものではなく、できる限り本質的な真理に基づくものであるように心がけているつもりなのです。それに、人は利己的な下心(したごころ)には敏感に反応し、それをすぐに見抜き、それに反発するものですから、結局そのような言動を取ればそのしっぺ返しがすぐに自分にはねかえってくることになります。まあ、それも自業自得なのですけれども…。これがわたくしがいつも最も気を付けていることなのです。それから、次にわたくしがもっとも大切にしていることについてですが、それもやはり本質を最優先にするということなのです。この世界の本質と自分の中の本質と、つまりこの二つの本質はもともと一つの同じものなのですけれど、その本質を最優先にするような生き方を大切にしていきたいと思っているのです。本質といっても少し分かりにくいかもしれませんが、それは簡単に言えば最も根源的で最も基本的で最も大切なもので、それが無ければそのほかのすべてのものが存在しなくなり、また、その存在している意味も失ってしまうようなものだといえると思います。簡単に言えば、と言っておいて、これでは少しも簡単になっていませんわね。まあ、それでもなんとなくこれで少しは本質といわれるものの性質や、なぜそれが最優先に考えられ最優先に取り扱われなければならないかがお分かりになると思います。それで本質をもっと具体的に言ってみれば、これからはわたくしの一つの信仰のようなものになるのですけど、まず、このことは先ほど美沙も言っていたかと思いますが、ほかの多くの人たちと同じように、わたくしもまた、この世のすべてのものの源であるPLEROMAと名づけられた超越的で完全な純粋エネルギー場を絶対的な本質として、そしてまたもっとも聖なるものとして信仰的に前提しているのです。そのPLEROMAからこの世のあらゆるものが生まれ出たと考えているのです。その結果、この世のすべての物事にはその絶対的な本質である超越的PLEROMAに内在している法ないし律ないし性質といったようなものが同じように内在していると考えるのです。そして、この世のあらゆる物の本質はそのPLEROMAの内在律に従って変化していくことの中にあると考えます。そして、そのあり方はPLEROMAのように完全であること、つまり、部分的断片的でないこと、つまり完全に統合された一体のものとして、部分的でありながらも同時に全一的にほかの一切のものと一体的に変化していくことなのです。そして、このことは、自然現象のすべてに純粋に当てはまるのです。自然現象においてはすべては単に部分的にではなく全一的に転じていきます。そしていつも完全なバランス状態を維持し続ける方向に向かって変化し続けます。つまり、自然現象のすべては純粋で自然で完全で本質的なのです。そのような自然は、この世で最も高い価値を持つ本質的なものとして、またわたくしたち人間のいのちの糧として、さらにまた同時に、わたくしたちの生き方の鏡として畏敬し感謝しなければならないものなのです。また自然は、わたくしたち人間を含んだこの地球上のあらゆる生き物を生み出した直接的母胎なのですから、なおさら畏敬し感謝しなければならないのです。ところで、この地球上の生き物たちはみんな自分の生命をより良く維持しようとする目的に向かって進化し続けています。この自分の生命をより良く維持し続けようとする働きは、自然界の物理的な原子や分子などがそれぞれの置かれた場の中で常に最も安定な状態を維持し続けようとする働きの延長線上にある性質だと考えられるのですが、また、それよりも高いレベルの維持安定、つまり、自分の意志的な働きかけによって環境を変化させながらその生命の安定をより信頼のおけるものにしようと工夫し続けるようなそういう働きなのです。つまり、常により良く生き続けていこうと工夫し続けながら、自分自身と自分を取り巻いている環境を変えていきます。そしてその傾向は、生命進化が進むに従ってより強くなっていき、やがてその意志の程度に相応しい、より高い身体能力を身につけていきます。そして哺乳類に至って、より大きな自由度とより高い知能を持つになり、さらには類人猿に至って、手で巧みに道具を扱えるようになり、わたくしたち人類に至っては、その能力は日を追うごとに飛躍的に高まり、今では地球上の生態系を激変させることができる力をさえ獲得するに至りました。ところで、このような生命系の進化の流れを見てまいりますと、残念なことには、わたくしたち人類において、その生命活動はいちじるしく本質的な方向から逸脱してしまったように見えます。自己維持のための本質的な生命活動がいつしか自己破滅へと向かう活動へと変質してしまっているのです。その最大の原因は、自己生命の維持活動が本質すなわち全一的な完全バランス状態の中でこそ保障されるものなのに、その本質的な世界との全一的な連関性を見失ってしまい、単に部分的で一方的で自己中心的な欲望追求マシーンのようなものに変わってしまったことの中にあるのだと思うのです。
 このような、地球生命系の歴史、さらには人類の歴史の根本的で本質的な観察と反省を通して、わたくしたちはわたくしたち自身を、この大自然本来の全一調和的な本道(ほんどう)へと引き戻したい、さもなければ、わたくしたちの生命活動の本当の願いとは正反対の自滅の方向へと突き進んでしまうことになると考えて、他にかけがえの無いこの地球社会を一日も早く本質化していこうという願いを胸に改善し続けてきたのです。そして今このように、わたくしたちはロータス世界に生きているのですが、このロータス世界を維持し、さらに末永くより良いものへと改善し続けていくために、わたくし個人としては、本質PLEROMAに内在している性質である、その一体的な完全性から引き出される善や美や真や智慧や正義などといった性質をもすべて溶かし込んだものとして、すべてのものと一つになろうとする働きである愛あるいは親和的な働きを通して、それを生活の中に表して生きていきたいと思っているのです。人それぞれに、その気質や好みなどに合わせて、善を通してそれを表そうとする人もいれば、美や真理や智慧や正義などの形でそれを表そうとする人もいるでしょうが、わたくしは自分の性格に一番合った、自分にもっとも相応しい、自分にもっとも自然なこととして、この世のすべてのものと親和して一つになろうとする愛によって、それを表していきたいと考えているのです。わたくしにとって、あらゆる対立や差別を超えて、すべてのものと親しく一つになって生きたいという願いあるいは祈りを生きることは、わたくしの心をもっとも満足させてくれるものなのです。そのような愛の祈りを生きているとき、わたくしはもっとも幸せな気持ちになれるのです。そして、その幸せに包まれるとき、わたくしはいつも思わず生きていることに感謝します。わたくしにとって、この世界を愛に満ちたものにしたいという祈りは已(や)むに已まれぬいのちそのものの促(うなが)しなのです。それは永遠に変わることの無い、この世の本質だと信じているのです。いえ、わたくしの心と体がそうだといつも内側から訴えかけてくるのです。 そして、もしもこのわたくしたちのロータス世界がいつの日にかより完全なものとなった暁(あかつき)には、この世界はきっと、あの聖なるPLEROMAのように、愛そのものが充満している世界になっていることでしょう。愛はまったく対立のない理想社会実現のための原動力なのですから、その愛を生きることを通して理想的な家庭を作り、理想的な地域社会を作り、理想的な地球社会を作っていきたいという祈りを生きることは、わたくし自身の本質を生きることにもなるのです。そして、わたくしはこうも考えているのです。人は誰でも、善や美や真実やほんとうの智慧や正義や愛といったものに出会うとき、この世の本質に出会うのであり、この世の本質に出会うということは結局はほんとうの自分自身に出会うことにもなるのだと。そしてあらゆる本質は神聖なものであり、そのような神聖なものに出会った自分もまた聖なるものに属しているのだと…。そしてまた、人は聖なるものの領域においてのみほんとうに幸せになれ、真のいのちの満足を味わうことができるのだと、わたくしはそのように考えているのです。そして、いつもこの世の本質を何よりも最優先に考えて生きていこうと心掛けているのです。
 ところで、この地球に生きているわたくしたちにとっての最優先の本質は、清らかな自然なのです。清らかな空気であり、清らかな水であり、清らかな土であり、また、そのような自然の中で健(すこ)やかに生きている植物であり動物たちなのです。そして、そのような清らかで豊かな自然の中ではじめてわたくしたち人間もまた健やかに生きていくことができるのです。もしも、このことを忘れて、自分たちの欲望を最優先にして自然を汚し続け自然を壊し続けるなら、わたくしたち自身が汚され壊されていくことになるのです。ですから、わたくしたちは皆、わたくしたちを取り巻いている大自然に感謝し、大自然を常に清らかに保ち、生きとし生けるものたちの健やかな環境と、そのような環境の中での生活を守っていこうと気をつけているのです。そして、そのような生き方の中から、わたくしたち自身の幸せも築いていこうとしているのです。これがわたくしが日頃から大事に思って生活していることのあらましですわ。」
「ああ、ほんとうによく分かりました。なるほど、そのように考えて生活していけばいいんですね。ほんとうにすばらしいことですね、ほんとうに感心いたしました。」
「ふふふ、また、小山さんの 『 なるほど 』 が始まった、『 ほんとうにすばらしいことですね 』 が始まった。」
「いや、ほんとうにすばらしいことです。わたしには、このような本当のことが当たり前のことのように気楽に話し合える家庭や社会や世界がすばらしいと思えるんです。」
「ああ、そうかもしれませんね。昔は、このような本質的なことを話し合える社会的環境が整っていませんでしたからねえ。いつも、当たり障りの無い、どうでもいいような、表面的なことばかりが話題になっていたようでしたからねえ。そしていつも一番大事なことが後回しにされて、結局少しも社会が良くなっていかなかったんですねえ。」
「はい、その通りなのです。ところでセレステさん、もう一ついいでしょうか、これも非常に大切なことなのでお聞きするのですが、育児に大切なことはどういうことでしょうか。もし、気を付けていらっしゃることがあればお話ください。」
「それはいつも気を付けていることですからすぐにお話できますわ。溢れる愛とその愛の中での躾(しつけ)ですわ。愛は親と子を強い信頼感で一つに結びつけ、躾は子どもたちを社会的に自立させていきますからね。」
「愛と躾ですか。」
「はい、何よりもまず溢れるような無条件の愛によってまわりの世界との一体感を植え付け、世界と自分自身に対する肯定的な心理的姿勢を整えてやります。それから、世界と自分との間の全一的なバランス感覚を養ってあげる必要があるのです。このとき、愛と躾の順序を逆にすると、世界と自分自身に対する肯定的な感情が形成されなくなり、いつまでも自分に自信の持てない、そしてさらには社会的に不適応な状態や、最悪の場合には社会を敵視するような心の姿勢を生み出す結果にもつながるのです。何よりも先に、嫌というほど愛情を注ぎ込むのです。少なくとも二歳を過ぎるころまでは無条件に注ぎつくしてやることです。それから徐々に躾けていけばいいのです。その頃にはもう親子の間には十分に強い信頼関係が築き上げられていますから、躾けても余り抵抗無く受け入れてくれるはずです。そして、自我が芽生え始める頃からは少しずつ責任感を植えつけてやるために、大人へと自立していく子供自身の成長過程を、後ろからさりげなく見守りながら、その成長のあと押しをしてやればいいのです。それから、最後にもう一つ大切なことを付け加えますと、子供たちに、その時その時にしなければならないことをきちんとし遂げていく生活習慣を植え付けてやることです、この習慣さえしっかり身につけば、子供たちもそれからの人生を大過(たいか)なく送れるというものですからね。」
「なるほど。だからこそ、美沙さんも理沙ちゃんもこんなにいい娘さんに成長なさったんですね。」
「はあ、まあ、そう言っていただけるとわたくしも嬉しいですわ。さあ、小山さん、もっとお食べになってくださいな。わたくしの話に耳を傾けてばかりでちっともお食事のほうが進んでいませんわよ。」
「あっ、はい、そうですね。おかずが冷めないうちに頂かなくっちゃ。」
「小山さん、もうこれで心は満たされましたか?」
「はい、美沙さん、おかげさまで心は十分に満たされました。後はお腹を満たしてやるだけです。もう、今日は皆さんからほんとうにいろんなことを教えていただいて、わたしもこのロータス世界のことがおおよそ分かってきたようです。」

 その夜は、食事の後、お茶を飲みながらセレステさんの子供のころの思い出話や、山本さんとの宇宙ステーションでの馴れ初めのいきさつや、美沙さんや理沙ちゃんがまだ小さかった頃の思い出話などを聞きながら十時ごろまで楽しく過ごした。そして、セレステさんに用意していただいた来客用のパジャマに着替えて、睡蓮やランの花の咲いている温室の見える部屋で床に就いたのが十時半過ぎであった。このようにして、わたしのLOTUS200年7月4日は無事過ぎていった。



   ・・・ホームページから転載・・・





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